2015年1月3日土曜日

【第397回】『三国志(六)』(吉川英治、講談社、1989年)

 赤壁の戦いを経て、いよいよ蜀を得る段階へと至る劉備。義に悖る行為によって蜀を奪うことを断固として拒否し、孔明の言葉すらも時に受け容れず、義を重んじながらいかにして国主になり得るのかが興味深い。

 曹操のまえでは、あのように不遜を極めて張松も、玄徳のまえには、実に、謙虚な人だった。
 人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう。(107頁)

 同じ一人の武将が、曹操と劉備の前での様子が異なる様を踏まえて、著者がこのように述べている。私たちはよく他者の言動に対して怒りをおぼえることがある。しかし、それは、他者の本質ではなく、自分自身の本質を他者に投影しているだけなのかもしれない。

「中庸。それは予の生活の信条でもある」(164頁)

 孔明に孫子が宿っているように、劉備の生き方には孔子が宿っているのであろう。


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