2014年12月29日月曜日

【第396回】『三国志(五)』(吉川英治、講談社、1989年)

 いわゆる赤壁の戦いへと至る過程と、その会戦の様子が丹念に描かれる本作。世紀の大戦の描写もさることながら、さらに円熟味を増すした劉備の人間性の描写もまた、読み応えがある。

「思うに、趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」(49~50頁)

 敗戦の最中に家族とも散り散りになった劉備。その幼子を必死の思いで探し出して連れ帰ってきた趙雲を前にして、劉備は我が子を放り投げる。驚く周囲の家臣たちを前にして、劉備はこの台詞を吐いた。身震いするほど、感動する言葉を心の底から偽りなく言い切れるところが、劉備のリーダーシップの有り様であろう。彼の臣下たちは、命を投げ打ってでも劉備のために尽くそうとするだろう。

「末梢を論じ、枝葉をあげつらい、章句に拘泥して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為。何で国を興し、民を安んずる大策を知ろう。漢の天子を創始した張良、陳平の輩といえども、かつて経典にくわしかったということは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯のあいだ、白を論じ黒を評し、無用の翰墨と貴重の日を費やすようなことは、その任でない」(81頁)

 劉備が三顧の礼で迎え入れた孔明の言である。世から離れた場での生活を良しとせず、世に出て智恵を振るうことの意義を強弁するこの情景は、躍動感に溢れている。いたずらに知識や言説に耽溺して現場から遠い場所から批評をすることに意味はない。現場に生き、社会で貢献し続けたいものだ。



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