2014年11月15日土曜日

【第374回】『新史 太閤記(上)』(司馬遼太郎、新潮社、1973年)

 最近は戦国時代の小説に手が伸びることが多い。特に、秀吉に関する歴史小説に興味がある。 

 小僧は、落胆した。が、絶望はしない。絶望するには小僧はあまりにも企画力に富みすぎていた。あっというまに次善の策を考えつく能力があって、ついに生涯、失望の暗さを感じたことがない。(31頁)

 秀吉の性格の特徴の一つとして著者は、楽観性を取りあげている。しかし、何事もポジティヴに捉えるということではなく、失望した事実を客観的に把握した上で、次に必要なことを実現させる企画力と修正力とがそこには含意されている。

 猿の異常な努力は、調略や諜報収集をしつつも、その種の暗さやぶきみさを、すこしでも信長や朋輩に勘づかさせぬところにあった。そのため、猿は、呑気で多少とんまな、別な印象を信長にあたえようとしていた。(285頁)

 調略や諜報収集は、戦において有効な活動の一つであろう。しかし、あの時代において、表立って評価されるのは戦闘場面における武功である。したがって、調略や諜報収集の玄人ぶりをあまり目立たせないという如才のなさを秀吉は持っているのだ。

 「知恵とは、勇気があってはじめてひかれるものだ。おれはつねにそうだ」
 が、胸中のこまごまとしたことは、依然いわない。言えないのであろう。目の前に生死の運命が屹立している。それを前になにをいったところで、言葉がむなしく虚空に散り消えるだけのことだということも、この剛胆な小男は知っているのであろう。半兵衛重治はこのときはじめて藤吉郎秀吉という男が、この地上で類のない男であることを骨の髄までしみとおるほどの感動をもっておもった。(450頁)

 知恵だけがあっても人生は開けない。また、勇気だけでは蛮勇になってしまう。勇気と知恵とを同時に発揮すること。これが秀吉をして、信長に評価され、やがては天下人となる上での重要な資質だったのであろう。


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