2014年11月22日土曜日

【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)

 孔孟思想に対する老荘思想。ということは、老子を下敷きにした考え方が展開されている書物であろうというレベルが読む前の荘子に対する知識であった。こうした初学者にとってありがたいことに、冒頭で訳者が解説を試みてくれている。

 荘子の人生哲学は因循主義で一貫している。そして、それを基礎づけるものが万物斉同の哲学であった。(7頁)
 万物はそれぞれあるがままにあり、そこにおのずからなる宇宙の秩序が構成されているが、それは何者かがそうあらしめているのではなくて、まさに文字どおり「自ら然る」ことによって、人間にとってどうしようもない必然的なものとなっているのである。(8頁)

 荘子の考え方の根幹は因循主義であり、因循主義の一つの基礎概念が万物斉同だと言う。万物斉同とは、何かを作為的にあらしめるのではなく、自ずから然りという自然的な存在である。

 この因循主義をささえるものとして、万物斉同の哲学がある。それは、主として斉物論篇にみえるもので、この現実世界の対立差別のすがたをすべて虚妄としてしりぞける立場であった。(9頁)

 さらに、万物斉同とは、対立をなくし、他との差異によってなにかを描き出すものではないとしている。
 以下からは、印象的に思えた箇所を抜き書きしながら、その所感を記していく。

 [いったい]相手がなければ自分というものもなく、自分がなければさまざまな心も現れようがない。これこそが真実に近いのだ。それでいて、何がそのようなさまざまな状態を起こさせるのかは分からない。真宰ー真の主宰者ーがいるようでもあるが、その形跡は得られない。作用の結果は確かであるが、そうさせてものの形は見えない。実質はあるが姿形はないのである。(斉物論篇 第二・二)

 相手がいるからこそ、自分がいる。自分がいるからこそ、相手がいる。存在とは、こうした相互作用の為せるわざなのであろう。

 そもそも分類するということは分類しないものを残すことであり、区別するということは区別しないものを残すことである。それはどういうことか。聖人は道をそのままわが胸に収めるのであるが、一般の人々は道に区別を立ててそれを他人に示すのである。そこで、区別するということは[道について]見ないところを残している、というのである。(斉物論篇 第二・七)

 分けるということは、分けられないことを残すことにならざるを得ない。孔子も述べる「道」に至るということは、それを理解しようとするのではなく、そのままを受け留めることが重要なのであろう。

 知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。[分からないところを強いて分かろうとし、また分かったとするのは、真の知識ではない。](斉物論篇 第二・七)

 知識についても同様である。分からないものを、あたかも分かろうとする行為は、知識を求める行為ではない。ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」を彷彿とさせる。

 それでは、真人というのはどういうものか。むかしの真人は逆境のときでもむりに逆らわず、栄達のときでもかくべつ勇みたたず、万事[をあるがままにまかせて]思慮をめぐらすことがなかった。こうした境地の人は、たとえ過失があってもくよくよと後悔せず、うまくいっても自分でうぬぼれることがない。(大宗師篇 第六・一)

 心を惑わさないこと。逆境でも順境でも、自分の心を一定に保つこと。心に留めておきたい格言である。

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