2014年10月5日日曜日

【第353回】『石橋を叩けば渡れない【新版】』(西堀栄三郎、生産性出版、1999年)

 著者は、京大での研究者、東芝での研究職、第一次南極越冬隊隊長、チョモランマ登山隊隊長といった、多様でチャレンジングなキャリアを積んだ人物である。このような人物のキャリアの原動力となったものや行動力の源泉といったものには何があるのか。含蓄に富んだ内容について、未知へのチャレンジ、研究的態度、マネジメントという三つの点に分けて検討してみたい。

(1)未知へのチャレンジ

 創意工夫するためにはーー。
 まず第一に「こんなことができないのか」と思わなければだめです。
 うぬぼれであっても何でもかまわん。うぬぼれと自信は同じものです。(中略)
 第二に、絶対あきらめたらいかん、何とかなる、何とかしてやるぞ、と思うことです。(60頁)

 ここで著者は、うぬぼれと自信とを切り分けず、うぬぼれで構わないから、現状でできないことへの憤りと自分であればできるという意志を持つことの重要性を指摘する。私たちは結果から遡って、成功したものを自信であるとし、失敗したものをうぬぼれである、と捉えがちだ。しかし、後付けでの解釈から零れ落ちるものは、当初の意図そのものである。自信であれうぬぼれであれ、当初の意図に相違は果してあったのであろうか。何かを思い立ち、行うべきであると思うことは、未来からの後ろ向きのベクトルではなく、現在からの前向きのベクトルであるはずだ。このように捉えれば、自信とうぬぼれとを切り分けることなく、前向きな意図を持つことの重要性に私たちは目を向けられよう。

 ことに、まず古いものをこわしてから新しいものを作ろう、という考え方をする人がいますが、私はそうではなしに、新しいものを作ったら、自然と古いものはなくなっていく、という考え方を持っています。(129頁)

 新しいものを創り出すためには、古いものを壊してから行うべきだ、という考え方は威勢がよく聞こえ、好ましいもののように一見して思える。政治家や企業経営者のスピーチを想起すれば、そうした多くの事例に思い当たるだろう。しかし、壊してから創るということは、ユートピアにおける考え方に過ぎないのではないだろうか。著者が例示するように、1960年代後半の学生運動における破壊行動が何も生み出さなかったことを思い返してほしい。理想を語って現状の大学制度を破壊しようとしても破壊はされず、現状を否定したはずの運動家たちは、何事もなかったかのように旧態依然とした企業に就職した。旧弊を壊して新しいものを創ろうとする行動はこのようになりがちだ。他方、Appleを例に取れば、iTunesは既存の音楽会社を無視したわけではなく、ジョブズは彼らと提携を行った。しかし、結果的に、Appleによって音楽業界やそのビジネスモデルは大きく変容した。これが革新というものの本質ではないか。

 準備が完全だと思っていると、覚悟はあまりしていないわけですから、それで思いもよらない事態がヒョッと出てくると、「あっ、どうしよう」と思ってあわてふためく。そしていい処置ができないでモタモタしているうちに、リスクはどんどん深く大きなものになって、どうにも手のつけようがないようになってしまう。ですから、まず、準備は不完全なものなりと感ずることが大事なのです。(49頁)

 革新や変化を起こす上で、準備はもちろん重要である。しかし、準備をし終えた際に、全てを網羅し終えたから問題が起こるはずはない、とまで思うことは有害である。準備をやり終えたとしても、それは現状におけるベストを尽くしただけにすぎず、状況は常に変化するものである。だからこそ、ベストな準備をしながらも、状況が変わること、つまり現在における準備が将来においては不完全になり得るというマインドセットを持つことが肝要である。これは、3・11における「想定外の事態」にいかに対応するかという考え方と非常に親和性があるように思える。

 いわゆる取り越し苦労ばかりしていたら、決して新しいことはできるものではありません。だから新しいことをする人は、天佑というものも作戦の中にじゅうぶん入れてよろしいのです。しかし、そのかわり、臨機応変の処置ができるという自信をつくっておくことのほうが大事です。それには、沈着でありさえすればそれでよいのです。新しいことをする心構えのひとつとして、こういうものがなければだめなのです。(54頁)

 全ての準備は不充分であるという想定とともに、偶然的な僥倖が起こることをも想定するというのは興味深い考え方である。チャンスとはあまりに突然訪れることがある。そうした際にチャンスを掴み取るためにも、僥倖を事前に想定するという著者の考え方は参考になるだろう。よく言われるように「好運の女神に後ろ髪はない」のであるから、女神が訪れたときには瞬時に反応できるようにしておく必要がある。

(2)研究的態度

 人間というものは、探求心とでもいうか、そういうものが心の奥底にムラムラと出てきて、誰に命ぜられるということもなく、一生懸命になる。私の場合でも、研究して、それがいったい何のためになるのか、といわれたら、別にお国のためになるとも、人類のためになるとも思わず、とにかく夜通しまでやった。(14頁)

 なにかを研究したいという発想の源泉を辿ると、社会や他者のためといった利他的なものではなく、自分自身の真なる想いに突き当たると著者は断言する。むろん、そうしたものの発想の背景には、社会的なイシューや特定の他者を想定するということはあるだろう。しかし、それを自分自身が研究し続けるということの源泉は、あくまで自分自身にあるのだ。

 これは何も南極に限ったことではありません。われわれの仕事の中には、未知の世界が必ずあるに決まっているのです。研究所の仕事でないと、そういうものがないような考え方をするのは、大変なまちがいなのです。すなわち、新しい知識のもとというものは、あらゆる場所に、いつでも、誰でもが見つけることができるようになっているはずです。ところが、ほとんどの人が、未知の世界への対応のしかた、あるいは、それの使い方を見つけることができない。(17頁)

 では新しい研究領域とはどこにあるのか。それは自分たちのすぐ近くにあるものであり、研究者という特定の職業だけに限らず、企業や非営利組織や家庭といったあらゆる職場に存在するものである。問題は、研究する未知の領域が存在しないことではなく、自分自身が心から行いたい領域を見出せていないだけなのである。存在していないのではなく、見ようとしていないだけなのだ。

 未知の世界を何とか知ろうとして、一生懸命になって探す。松茸がないかなと思って、一生懸命に探す。ほかの人が探しているから、もうないだろうと決めてかかるのではなくて、みなさんが毎日しておられる仕事の中から、一生懸命に探していくことが大切なのです。つまり、大事なのは研究的態度を持つということです。
 その探し方の秘訣は何かというと、“観察”です。つまり、「変だぞ」と思うことがあったら、それを徹底的に究明することです。(中略)
 観察の仕方にもいろいろありますが、大事なことは、理屈をいわず、虚心坦懐に現象を眺めることです。(26~27頁)

 では次に、自分自身にとっての研究領域をどのように見出すことができるのか。著者は、日常における自分自身の興味を探そうとし、それを自分の身近な領域の中に見出そうとすることである、としている。そのためには、自分自身の心が自ずと動かされる点や違和感をおぼえる点について、虚心坦懐に観察することが重要である。私たちが日常的に目にしているものの中に研究領域を見出すというのは、宮本常一氏の『民俗学の旅』(『民俗学の旅』(宮本常一、講談社、1993年))にも通ずる。

 創造性開発では、インフォーメーションを集めるというのが非常に大切なのです。それは事実に基づくとか、事実から出発をすること、とかいうことが大切なのは、言をまたないところです。その事実というものを眺めるときに、先入観をもって眺める、あるいは自分で組み立てたロジックの上において見る、というような立場では、本当のことがつかめない。つまり虚心坦懐に、そのデータを集め、そしてそれを虚心坦懐に眺める、あるいはデータの語るところを虚心坦懐に開かなければいけないものだ、というのが大事なのです。(153頁)

 こうした虚心坦懐な観察というものは、何も自分自身の周囲を物理的に観察するだけではない。そうではなく、身の回りに起きている現象を変数として捉え、ある変数とある変数との関係性や、特定の変数の異時点における変化に注意を喚起することである。これはなにも難しい統計解析を試みる必要があるというわけではない。「風が吹けば桶屋が儲かる」といったレベルの仮説を自分自身で設定して、それが正しいのか、はたまた途中の変数がおかしいのか、について事実ベースで観察すれば良いのである。

 もうひとつ大事なことは、“捉われない”ということです。
 捉われることの、一番大きなものは、過去の自分の経験なり習慣なり、あるいは既存の法則とか、ルールとかいった類いのものです。(中略)
 専門家であることは結構なのですが、開放的な、あるいは自由な、少なくとも心の自由というものを持っていることが、非常に重要だということです。(153~154頁)

 仮説を持つと共に大事な点は、自分自身の経験や背景知識といった偏狭な概念に捉われないということである。むろん、仮説を立てる時には自分自身の経験や知識が必要であろう。しかし、いったん仮説を立てた後には、粛々とデータに基づいて現象を把捉することが重要だ。ともすると私たちは、自分が創った仮説に過剰に捉われて、その正当性が失われないように、異なるデータを取るまいとして、フィードバックループを閉じてしまう。それでは自分自身の偏狭な世界から抜け出せず、オープンな研究的態度によって未知の世界を明らかにすることは難しい。

 もっと開放的な専門家でなければならない。なるほど中心は機械にあるかもしれないけれど、きちっと決められたものではなくて、横にいくらでも広げられるのだということです。もちろん、他人もそう思わなければいけない。自分もそう思わなければいけないのです。私のいう能力というのは、そういう意味の能力も含まれております。深さはもちろんのこと、幅も全部そうです。だから容積はいくらでも変えられるものと考えることが大事です。そのかわり、そうするためには意欲が必要です。しかも、これはほかからつけるものではなく、自分の本性として持っている。そういう内発的な圧力、やむにやまれない意欲というものを燃やす、またそそる必要があるわけです。(133頁)

 研究を日々行う人物を専門家と称するとすれば、どのような専門家であれども、開放的な存在でなければならない。これは『ドラッカーと論語』(『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年))での安冨氏の鍵概念の一つを借りれば、「学習回路を開く」ということであろう。専門バカにならないため、また研究領域を広げて現実への適用可能性を高めるためにも、いかに自分自身の学習回路を開き、多様なフィードバックを得られるように設えるか。これが専門家にとって求められる態度なのである。

 研究的態度で仕事をすることで、仕事への情熱がわき、単純さからくる「飽き」「たいくつ」から脱却して人生の生きがいが得られます。誰にでもできて、もっとも効果的な研究のやりかたは、統計的にデータを集め、刻々それの語るところに教えられるように解析することなのです。(156頁)

 ここまで述べてきた研究というものは、他者から言われて義務的に行うものではないことに改めて留意したい。自分たちで、目の前で取り組んでいる仕事をはじめとした物事を、よりたのしく、自分にとって意義あるものにするために、研究的態度が重要なのである。つまり、研究的態度は、自分のために自律的に取る態度なのである。さらには、内発的動機付けの理論が古くから明らかにしているように、行動が刺激に先行するのであり、行動することで自分自身が心から行いたい研究領域が見えてくるのである。したがって、行動する前から自分にとっての研究領域を意識することは難しく、まずは行動することなのである。

(3)マネジメント

 人は必ず自分の型というものを持っている。あるいは理想像というものを描いている。その目で相手を見るから全部欠点に見えるのだというのです。(84頁)

 チームのマネジメントであれ、部下のマネジメントであれ、タスクのマネジメントであれ、マネジャーは、自分自身の眼鏡で他者を見てはいけない。というよりも、自分自身の眼鏡で見てしまうということに自覚的であるべきであろう。この点に自覚的でないと、自分ができていることで他者ができないことにイライラしてしまい、他者が欠点ばかりの存在のように思えてしまう。観察に関するポイントについて前述した通り、他者を観察する際にも、自分自身の観点に捉われるのではなく、その有り様をそのまま観察することが重要なのである。

 もとの個性というものは変えられないのですからそのままにしておいて、その代わり短所になってあらわれているあらわれ方だけを、長所にふりかえるようにするしかないのです。(中略)
 個性は直せないから個性をいかそうと思う、これは非常に価値のある大事なことです。
 個性尊重ということは、個性は変えられると思うことから始まるのです。(86頁)

 捉われずに観察することによって、他者の個性というものを明らかに見ることができる。こうした個性は他者によって変えられないものであり、個性の発揮として、他者からすると短所のように見えてしまうものがあることが分かる。したがって、マネジャーとしては、そうした発揮のされ方に着目してフィードバックを行うことで、個性が違うかたちで発揮されるように関与することが求められる。そうすれば、相手からすれば、自分の個性を尊重されていることを感じ取り、その発揮の仕方を工夫するように自ずから納得して努力することができるのではないだろうか。

 私は自由というものに対して、人さまの自由を尊重できないような人間には自由は与えられない。つまり人さまの自由のほうが優先すると思います。(100頁)
 それはチームワークから出てくることなのですが、共同の目的のために一緒に働くものはお互いにほかの人がどういうふうにしているか、ということに無関心であってはならないと思っているところにあるのです。
 だから、この人にまかせた、この人の自由にやってもらう、この人の責任でやっているんだ、といいながらも、ほかの人はみんなこの人のやっていることを常に気にかけている。つまり無関心ではないということです。常日ごろは何もいわないのですが、ほんとうにいけない、ほんとうにあぶない、ということになったときには、みんながそれを助けて、そうならないようにしてやる、というところによさがあります。(中略)
 そこがチームワークの大事なところです。ほかの人のやっていることもちゃんと関心を持って、そしてお互いに絶えず気をつけているという、そのところが大事です。(109~110頁)

 人の持つ個性を重視する著者の姿勢には、他律的ではなく自律的な発想と行動への尊重という点が垣間見える。その上で、自由とチームワークという一見すると相互矛盾する概念を同時に重視すべきであるとする。したがって、自由を重視するということは、自分の自由ではなく他者の自由を優先すると主張している点に着目するべきであろう。他者の自由を優先するということをチームのお互いが行えば、他者の様子や状況に関心を寄せることは当然であろう。なぜなら、他者が自由に行動できることをケアするためには、他者へ興味・関心を持ち、折に触れて観察することが必要だからである。こうして相互に自由を尊重し合うことによって、突発的な変化や重要な業務の発生に対して、チームワークを発揮して対応することができるのである。付言すれば、そうした他者への支援行動は、他律的なものではなく、自律的なものであることは言うまでもないだろう。

 知識を得ることが科学である、としますと、その知識を、何かの目的に使うことが技術なのです。(19頁)
 知識を「応用する才能」というものは、教えられるものではなく、失敗を恐れずに修行をさせて、育てるものなのです。育てるとは、失敗の責任を授業料だと思って、引き受けてやることです。「学」は教えることができるが、「術」は育てることでのみ得られるのです。(139頁)

 マネジメントの中には、人材育成も重要な要素の一つとして含まれる。育成ということを考える際に私たちは、学校という制度やしくみに捉われて考えすぎなのではないか。つまり、学校でよく行われるような知識を単純にインプットし、それを正しくアウトプットできるようにすることを教育の全てであると誤解しがちである。むろん、暗記は必要な学習の形式の一つであるが、それはあくまで多くのもののうちの一つの形式にすぎない。知識をいかに活用するかという技術を抽象化して伝えることで応用可能性を高めること。また、良質な機会をマネジャーがデザインし、それを経験してもらうことで「応用する才能」を育てること。マネジャーとしては、育成においてこうした点を留意して行いたいものである。

(4)その他

 三つの点に分けて、私にとって非常に大事であると思う点を述べてきた。こうした含蓄の深い考え方をされる著者が、若い頃の出来事として、カモシカを捕って食べた話を尼さんとやり取りをしているエピソードが本書の冒頭で出てくる。上記の三点に分けられない箇所であるとともに、一見するとなぜそのエピソードを本書の冒頭で記したのか分りづらい。しかしだからこそ、私には、著者が記した自然観が彼の人間観を形成する上で重要なポイントになっているように考える。以下に引用して本論考を終わりにしたい。

 「あんたはもう自然の恵みを遺憾なく甘受して、その死んだカモシカの足の先までおいしかった、とさっきいうとったやろ。そうしたら、それは殺生ではない。そのカモシカは成仏しとる」(11頁)

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