2014年10月19日日曜日

【第361回】『自省録』(マルクス・アウレーリウス、神谷美恵子訳、岩波書店、1956年)

 ローマ時代における五賢帝の一人と称させる人物による人生訓。感銘を受けた部分について所感を記していく。

 腹を立てて自分に無礼をくわえた人びとにたいしては和解的な態度をとり、彼らが元へもどろうとするときには即座に寛大にしてやること。(第1巻・七)

 無礼な言動を取る時に、人は、冷静でないことが多い。一時的な衝動に駆られて取った行動を本人自身が反省しても、それを相手に対して示すことは難しい。そうであれば、被害を受けた側から、相手が関係を元に戻そうとする潜在的な意図を汲み、何事もなかったように歩み寄ると、お互いにとって良いのだろう。

 外から起ってくる事柄が君の気を散らすというのか。それなら自分に暇を作って、もっと何か善いことをおぼえ、あれこれととりとめもなくなるのをやめなさい。またもう一つの間違いもせぬように気をつけなくてはならない。すなわち活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持っていない人たちもまた愚か者なのである。(第2巻・七)

 忙しいために自分にとって大事な活動に時間をかけられない、と私たちはよく口にする。しかし、それは私たち自身が生み出したものではないか。本当に大事なことであれば、しっかりと時間を作り、意識を集中させること。そうした集中を実現するために、自分にゆとりを設けること。皇帝ですら時間を作れるのであるから、私たちがそうした時間を作れないことがあるだろうか。

 君の分として与えられた環境に自己を調和せしめよ。君のなかまとして運命づけられた人間を愛せ。ただし心からであるように。(第6巻・三九)

 「自由と自己責任」という考え方に、私たちは囚われすぎているのではないだろうか。むろん、そうした考え方が誤っているとは思わないが、一つの考え方に固執するというのは、息苦しいものだ。環境や身の回りの人たちは、私たちが選んだものではなく、所与のものであると考えること。そうすることによって、周囲と調和するということに意識が向くようになるのではないか。

 君の全生涯を心に思い浮かべて気持をかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起ってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。(第8巻・三六)

 いたずらに将来を悲観的に思わないこと。将来起こり得ることに心を悩ませていると、現在もまた悩ましいものとなってしまう。今の状況に対して、粛々と、前向きに対応すること。

 万物は変化しつつある。君自身も絶えざる変化の中にあり、ある意味で分解しつつある。然り、宇宙全体がそうなのである。(第9巻・一九)

 世の中の変化のスピードが早くなっていると言われる。しかし、ローマ時代の頃から、変化は言われているのである。変化が普通の状態であると認識し、いかに変化の中で調和させるか、が昔から私たちにとって重要なことだったのであろう。現代が、特別な時代なのではない。


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