2014年9月15日月曜日

【第338回】『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社、2006年)

 橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司といった現代を代表する社会学者を何人も輩出した小室ゼミ。その主催者である著者が語る社会科学の本質は、端的で、鋭い。

 私が社会科学を研究しているのは、気の利いた「意見」を言うためではありません。学問とは本来、それぞれの人間が自分の意見を持つための「材料」、言い換えれば議論の前提となるものを提供するためにあるのです。それが学問の使命です。(15頁)

 社会科学の一つとされる法学。中でも最上位の法と位置づけられる憲法に関して、本書ではその生み出された背景とその影響について丹念に述べられている。まず、憲法とは何を対象とした法律であるのか。

 憲法とは国民に向けて書かれたものではない。誰のために書かれたものかといえば、国家権力すべてを縛るために書かれたものです。司法、行政、立法……これらの能力に対する命令が、憲法に書かれている。(53頁)

 大きな権力を持つ国家を制約するために憲法はあり、そうした権力の暴走を守るための役割を担っている。私自身も、学部の時に学んだ憲法学でそのように習ったものであり、憲法学においても主流の考え方なのであろう。著者は、こうした基礎的な考え方に基づきながら、予定説、契約という二つの重要な論点について述べ、それらを踏まえて日本における天皇教について最後に述べている。

 第一に、予定説について見てみよう。

 神様の選考条件は人間には絶対に分からない。しかし、救われることになっている人であれば、その人は間違いなく予定説を信じている。(中略)
 だから、予定説を信じてプロテスタントになることだけでも、あの絶対にして万能の神様のお導きがあったればこそ。そこに「神の予定」を感じるではありませんか。(130頁)

 予定説とは、ルターと並んで宗教改革の旗手と称されるカルヴァンが唱えた説である。最後の審判において、救われるかどうかは予め定められており、それは誰にも分からない。しかし、救われる必要条件として予定説を信じていることは求められることが導き出される。そうすることで神という存在を身近に感じられるというメリットもあるとしている。

 予定説を信じると、その伝統主義もまた色あせて見える。
 なぜなら、神の絶対を信じているプロテスタントからすれば、「昨日まで、そうやって来たから」という理由では納得できない。彼らにとって何より大事なのは、それが神の御心に沿っているかどうかだけです。だから、神様のためなら社会の仕組みなんてぶち壊して、作り替えてもかまわない。(中略)
 近代の歴史は革命の歴史と言ってもいいわけですが、その革命もまた予定説の産物だった。(152頁)

 偉大なる過去からの延長としての現在を描こうとする伝統主義・保守主義に対して、予定説はその時間軸におけるパラダイムを百八十度変換させる。こうした起こるべき未来という視点に立った予定説の考え方によって、そうではない現在の社会を正統に否定するための革命権が生み出される。近代における市民革命を正当化するロジックが予定説によって導出されたのである。

 予定説を信じる人々が登場したことによって、そうした特権は「人権」へと変貌した。一部の人だけが特権を持つのではなく、誰もが同じ特権を持っている。それを人権と呼ぶようになったわけです。(150頁)

 時間軸から生み出された革命権に加え、空間軸、つまりは最後の審判の時点で神の前において平等に立たされるという観点から特権が否定される。その上で、あまねく人々が平等に持つ人権という概念が生み出された。

 近代民主主義の平等や人権という概念が生まれるのには、人間の価値を徹底的に否定する予定説の教えが必要だったと、この講義の冒頭で述べました。
 近代資本主義の成立もまた同じです。利潤を追求する資本主義が誕生するには、まず金儲けそのものが徹底的に否定される必要があった。その資本否定の思想とは、他でもない、あの予定説なのです。(163頁)

 革命権、人権に加えて、資本主義もまた予定説の産物であると著者はしている。神の前における人間の価値の否定が翻って人間の存在性を重要視する人権を生み出したのと同様に、金儲けを徹底的に否定することで利潤を最大化する資本主義が生み出されたのである。この転回的な発想はやや難解であるため、ウェーバーを基にしながら著者は詳細を説明している。

 近代以前の人間なんて、どこも似たようなものです。ことに当時のヨーロッパでは、キリスト教特有の金銭倫理があるから、必要以上にカネを稼ぐのは悪徳だと思われていた。だから、最低限の労働でいいのです。
 ところが、予定説を信じている人たちは違います。この人たちは、安息日以外の週6日、働きづめに働く。
 というのも、予定説においては、すべての人間の人生はあらかじめ神が定めたもうたこと。ならば、自分の職業もまた神が選んでくださったものに違いないという考えが生まれたのです。(172頁)

 これが天職という考え方に繋がるわけであり、プロテスタントがなぜ勤労に励むのか、そうした結果として逆説的にお金が貯まり資本主義の源泉となったのである。

 第二に、契約について考えてみよう。

 ロックは自然人と自然状態という2つを仮定することによって、「人間というのは、放っておいても、じきに契約を交わして社会を作るようになるのだ」ということを理論的に“証明”したというわけです。(192頁)

 自然を所与の条件として、自然状態においても契約を人々は交わし合うということをロックは導き出した。

 ロックの考えはまさしく現在の憲法や民主主義の思想につながるものです。国家権力はかならず肥大化して暴走する。それをくい止めるのが憲法であり、民主主義なのです。(194頁)

 自然状態ではない国家権力は、自己の持つパワーによって肥大化する傾向を持つ。そうした肥大化を牽制し抑制するのが憲法であり、契約に基づいて人々が平等に結びつく民主主義であると著者はする。

 「神との契約は絶対に守るべきものである」という概念が、聖書を通じて教えられていたからこそ、欧米の人たちは人間同士が結ぶ契約についても、やはり同じように守らなければならないと考えたというわけです。
 また、聖書においてモーゼに与えられた律法などを見て、「契約とは言葉で定義するものだ」という考えを持つようになった。(254頁)

 こうした契約の特徴として、言葉で定義されるべきものであると、モーゼを引き合いに出しながら述べられている。こうした感覚は、キリスト教圏では自然な感情として持てるのであろうが、非キリスト者には実感として分かりづらい。分厚い契約書がアメリカの映画で映し出されると私たちの多くは違和を感じるものだ。しかし、あれは契約とは文字に書かれたものである、という文化においては理解できるものなのだろう。

 結局のところ、民主主義とはひじょうに効率の悪い政治システムです。
 何でも投票と議論で決めなければならないから、なかなか物事がスムーズに動かない。それに比べれば、ボナパルティズムやファシズムでは独裁者1人が何でも決めるのですから、決断が早いし、失敗したときの修正も早く行なえるというものです。
 ですから、政治がうまく動かなくなれば、大衆は英雄を求めます。(295頁)

 契約の概念から生み出される民主主義はなにも薔薇色のものではない。時間とコストが掛かる民主主義のしくみに対して、それが機能不全に陥ると独裁制を私たちは求めてしまうことは歴史が示している通りだ。

 「戦争はイヤだ」「戦争はよくない」という平和主義こそが、独裁者を増長させ、大戦争を引き起こしたのです。逆に「戦争もやむなし」という覚悟があれば、かえって戦争は避けられた。これこそがチャーチルの言いたかったことなのです。(332頁)

 前者の例として、ナチスの膨張主義を厭戦意識の強かったヨーロッパ諸国が認めたために第二次大戦は起きた。後者の例として、著者はキューバ危機を用い、戦争を辞さないケネディの強硬姿勢によって核戦争が避けられたとしている。後者については異論もあろうが、平和主義には独裁者を結果的に許容してしまうというリスクを内包していることに、私たちは留意する必要があるだろう。

 第三に、日本に目を転じてみよう。

 文明開化とは要するに日本経済を資本主義にすることです。資本主義こそが主権国家へのパスポートなのです。
 日本を資本主義国にするというのは、明治政府のもう1つの方針である国防の強化にもつながります。資本主義の工業力がないかぎり、日本は国防力を持つことはできません。そこで官民挙げて、明治の日本は資本主義への道をひた走ることになったというわけです。(380~381頁)

 明治期における日本の資本主義化は、主権国家として欧米列強から独立を勝ち取ることと、そうした独立国家である列強から自国を守るために必要とされていた。そのために、資本主義化が金科玉条とされたのである。では、明治期の日本は何をもって資本主義の旗印にしたのであろうか。

 国家元首たる天皇を、日本人にとって唯一絶対の神にすること。天皇をキリスト教の神と同じようにするというアイデアです。
 すなわち「神の前の平等」ならぬ、「天皇の前の平等」です。現人神である天皇から見れば、すべての日本人は平等である。この観念を普及させることによって、日本人に近代精神を植え付けようと考えた。(386頁)

 キリスト教における神を前にした平等という概念を、天皇を前にした平等に擬したのである。これが著者が天皇教と呼ぶ所以である。

 では、天皇教の教義とは何か。
 その主な柱は2つです。1つは先ほども述べた「天皇は現人神にして、絶対である」という教義です。この教義から「天皇の前の平等」という考えが生まれてくる。
 もう1つの重要な柱は「日本は神国である」という思想です。(中略)
 天皇教で言う「神の国」とは、ユダヤ教における「約束の地」と同じ意味を持つ、重大な概念です。(390頁)

 前者は、先述した天皇の前の平等である。後者では、神との契約における約束の地に擬して神の国を創出されたのである。では、こうした現人神を中心に据えた神国日本という民主主義の装置が、憲法の崩壊とあの戦争を招いたのか。著者は明確に否定し、異なる理由を提示する。

 昭和15年、帝国議会はみずから言論の自由を封殺した。そして、軍部を批判した斎藤隆夫を除名処分にしてしまった。議会は任務を放棄してしまったのです。
 日本の運命を決定したのは、憲法でもなければ、制度でもありません。ドイツと同じように議会が自殺してしまったことこそ、日本にとって致命的なことであったのです。(424頁)

 神の国や現人神といった民主主義を擬製しようとしたシステムがあの戦争を招いたのではなかった。そうしたシステムを基にして、権力の暴走を牽制する力を有していた議会が、自らの権力を自らの手で放棄したことが、民主主義を、憲法を亡きものにしてしまったのである。そうした議会を自死に追い込んだ主体がさらにあると著者は主張する。

 では、よい政治家を作るにはどうしたらいいのか。どうやったら、真のリーダーシップが生まれてくるか。
 その答えは言うまでもありません。「よい政治家を作るのはよい国民だ」ということです。(472頁)

 当時の国会議員をして斎藤隆夫を除名処分にしたのは、世論であると著者は喝破する。戦争を肯定し、軍部の膨張主義を後押ししていたのは世論であり、世論を気にする国会議員は斎藤を除名するのを世論の反映と判断したのである。過去の事例をもとに私たちの特徴を理解することで、同じような状況に陥った時に同じ轍を踏まないように心に留めたい指摘である。


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