2014年9月29日月曜日

【第346回】『私本太平記(一)』(吉川英治、講談社、1990年)

 山本七平さんの本を読んでから、太平記を改めて読もうと思っていた。小学生の頃に読んで以来であると記憶しており、内容があやふやだったからである。しかし、読み始めた頃から既視感をおぼえていたのであるが、百頁ほど過ぎたあたりから、違和感が確信に変った。この本は読んだことがある、と。記憶とは不思議なもので、読んだことがないと記憶していたにも関わらず、読んでいくと細かなエピソードに馴染みがあることに気づく。それらが繋がって行くと、読んだ感覚を思い出せるのだから不思議である。読んだとしたら、大学院に通っていた頃であろう。数年前に読んだ本を、偶然とはいえ、読み直すというのは興味深い。意図せざる再読というものもまた一興だ。

 小説を読む時は、人物描写に着目して読むようにしている。簡潔にして、明瞭にイメージできるように人物を描くのは、小説家の腕の見せ所であろう。まずは、主人公の一人である後醍醐天皇について。

 わけて、常人の印象となるであろう点は、笛の孔に無心な指の律動を筬のように弾ませていらっしゃるそのお手のなんとも大きなことだった。貴人にして力士のようなお手である。把握欲と闘志の象徴とでもいえるものか。なみならぬ天賦の御気質のほどがそれには窺われる。(31~32頁)

 顔ではなく、手に焦点を当てているところがさすがである。手の様子を描写されることで、後醍醐天皇の人となりにイメージを持てるのだから、面白い。次に、もう一人の主人公である足利尊氏の描写について。

 その眼もとには、人をひき込まずにいない何かがあった。魔魅の眸にもみえるし、慈悲心の深い人ならではの物にもみえる。どっちとも、ふと判別のつきかねる理由は、ほかの部分の、いかつい容貌のせいかもしれない。(9頁)

 太平洋戦争の時期においては、天皇を賞讃せんがために逆賊として蔑まれるように扱われた足利尊氏。本作では、そうした歴史観に基づくものではなく、著者が中立的な立ち位置で、その不思議な魅力を表現するように努めている様が見えてくるようだ。

 では一体、何をそんな重荷に感じているのかといえば、いうまでもなく、かの“祖父家時の置文”にほかならなかった。
 その置文は、あの朝、密かに焼きすてて、内容だけを、自分一人の胸に秘封してしまったのだ。その日から、高氏という人間はどこか違ってきている。又太郎高氏の再生が始まっていたと過言ではない。(201頁)

 尊氏に天下を意識させたと言われる祖父の置文。それを読んだから大志を抱いたのか、そうした大志を本質的に持っていたためにそれによって顕在化したのか。私には、前者ではなく後者であったように思えるが、いかがであろうか。

 人なき折、解いてみると、書物の間には、国元の直義から右馬介あてに来た書簡二通と、また、彼自身の詫び状が挿んであった。
 「……おお、弟直義も、いつかわしの胸を知っていたのか。右馬介といい、直義といい、そこまで、わしに同意だったか」
 読みつつ、彼はまた涙を新たにした。そして、涙にぬれた左の手頚をふと見入った。
 彼の手頚には、この五月以前にはなかった痣ができていた。それは鎌倉中の人々に嗤われた日の記念だった。執権高時の愛犬“犬神”に咬まれた黒い歯型の痣なのである。(274~275頁)

 自分以外には置文の内容を秘していた尊氏であるが、最も近しい存在たちがその胸中を知悉しながらそれをおくびにも出さないことを知って感動を覚える様子が印象的である。さらに、そうした感動の心持ちの中で、現在の権力者への恨みを思い出させる傷をもってリマインドさせる好対照さが読んでいて心地よい。


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