2014年8月13日水曜日

【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

 吉田松陰から高杉晋作へと受け継がれる狂の精神。しかし、その意図する内容は、時代の変遷と関連して、二人で異なる。

 藩はかならず亡ぶ、ということである。夷人どもは大鑑をつらね、大挙して再来するにちがいない。そのときは長州武士がいかの刀槍をふるっても、敵うものではない。そのことは、上海で知った。防長二州は砲火で焼け、焦土になる。
 (ならねばならぬのだ)
 というのが、松陰にはなかった晋作の独創の世界であり、天才としか言いようのないこの男の戦略感覚であった。(88~89頁)

 松陰が既存の江戸幕藩体制のもとで狂の思想を体現しようとしたのに対して、晋作は、狂という思想に基づいた現実的な大戦略を構想する。そのためには、幕藩体制を括弧に括り、愛する藩を犠牲にするという断腸の思いに基づいた戦略構想を練っている。いたずらに思想に殉じようとするのではなく、犠牲精神や現実志向や主義主張といった様々な自分の中の観念を統合した、いわば偉大な起業家のような驚くべき発想である。上で引用した箇所に続けて、大戦略をアクションへと落とす具体的な方策を晋作は講じている。

 敵の砲火のために人間の世の秩序も焼けくずれてしまう。すべてをうしなったとき、はじめて藩主以下のひとびとは狂人としての晋作の意見に耳をかたむけ、それに縋ろうとするにちがいない。
 (事というのは、そこではじめて成せる。それまで待たねばならぬ)
 と、晋作はおもっている。それまでは、藩は敗戦の連続になる(いまは連戦連勝だが)にちがにない。そういう敗軍のときに出れば、敗戦の責めをひっかぶる役になり、人々は晋作を救世主とはおもわなくなるだろう。ひとに救世主と思わせなければ何事もできないことを、晋作はよく知っていた。(89頁)

 どのタイミングで藩の中心人物として登場するか、というところまで入念に考えている。ここで大事なのは流れや方向性の仮説を見通している点であり、個別具体的なアクションまでは定義していないという点であろう。(事後的な表現とはなるが)幕末という変化に富んだ時代においては、方向性というやや抽象度の高いレベルでの仮説検証が重要であったのだろう。

 松陰も自分を、
 「狂」
 と規定し、狂でありつづけようとした。晋作はその「狂」の思想をひきつぎ、松陰が言いつづけたように狂のみが至誠至純の行動をつなぬきうると信じた。狂の思想家は自分の人生を自分でやぶらねばならない。松陰は、そのために刑死した。晋作もそのために死ぬことを念願としてきた。
 が、その時代がおわった。集団の時代がきた。集団というものの生物的整理が発狂状態へ騰るとき、個々の「狂者」などはない。狂であるための個人的危険性もなかった。発狂状態のなかにいればかえって安全であった。(中略)すでにそれは狂の栄光を背負った思想者としての行動ではなく、集団のもつ生理現象のようなものであった。(138頁)

 松陰が個人で狂を体現しようとしたのに対して、晋作は集団で体現しようとした。正確には、公的な藩令に基づきながらも奇兵隊という狂の集団を創り上げ、集団として動ける素地を自分の手で用意したのである。こうした、大戦略の構想、抽象度を残したアクションの方向性の提示、それらを共有した集団の構築、といった点は、現代のビジネスにも通じる含蓄に富んだあり方ではないだろうか。

 しかし、こうした晋作が革命しようとした長州藩の有り様は、良くも悪くも満州事変から太平洋戦争へと至る日本の精神へと堕しかねない要素も含んでいる。

 われわれは日本人ーーことにその奇妙さと聡明さとその情念ーーを知ろうとおもえば、幕末における長州藩をこまかく知ることが必要であろう。この藩ーーつまり一藩をあげて思想団体になってしまったようなこの藩ーーが、髪も大童の狂気と活動を示してくれたおかげで、日本人とはなにものであるかということを知るための歴史的大実験をおこなうことができた。(158頁)

 一つの思想に殉じること、そうした思想に基づいた方向性に集団として感染し易いこと。これらは担ぎ上げられた思想が善であれば問題がないのであろうが、それが誤っていても無批判に染まってしまうために集団として問題を起こしてしまう。思想が中心であり、人物が集団の中心に存在しないために責任を問うことができず、事後における反省も充分に為されない。こうした問題点を私たちは深い部分に内包しているということに自覚的であることは重要であろう。

 井上らは、やぶれた。
 次いでこの藩の藩主と重臣たちがとった手段は、その後の日本において繰りかえしおこなわれるようになった事柄にきわめて似ていた。藩主以下重臣たちは井上のいうことがよくわかっていながら、三十日には、
 「攘夷をあくまで断行する。決戦の覚悟肝要なるべき事」
 という大布告が発せられた。発した政治の当為者はこの大布告の内容をもはや信じてはいない。しかしこれを出さねば、井上帰国によっておこった藩内の疑惑と同様と沸騰がしずまらないのである。国際環境よりもむしろ国内環境の調整のほうが、日本人統御にとって必要であった。このことはその七十七年後、世界を相手の大戦争をはじめたときのそれとそっくりの情況であった。これが政治的緊張期の日本人集団の自然律のようなものであるとすれば、今後もおこるであろう。(181~182頁)

 下関での攘夷活動の後に起こる四カ国戦争の直前に、そうした諸外国の動きを外遊先および横浜で掴んだ、後の井上馨の死を賭した建議を入れなかった藩の行動。これは、恐ろしいほどに、私たちが先の戦争の過程で体験した軍部や行政機関の意思決定を見ているようである。とりわけ、著者が最後の一文に記した警句を、私は肝に銘じておきたい。


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