2014年8月11日月曜日

【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

 いわゆる幕末期における歴史小説は何冊か読んできた。それらは、薩摩、土佐、幕府側に焦点を当てたものばかりであり、長州は何をやらかすか分からない危険因子としての印象しかなかった。第一巻では吉田松陰が主に描かれる。

 「大器をつくるにはいそぐべからざること」
 松陰の生涯の持説である。「速成では大きな人物はできない。大器は晩く成る」と、松陰はいう。(41頁)

 決して長い人生を歩んだわけではない松陰が大器晩成を説いているというのは意外な心持ちもするが、非常に勇気づけられる発言である。

 古に仿えば今に通ぜず
 雅を択べば俗に諧わず
 その意味は、
 「古学ばかりの世界に密着しすぎると、現今ただいまの課題がわからなくなる。また、格調の正しい学問ばかりやっていると、実際の世界のうごきにうとくなる」
 ということであり、これは松陰がかねておもっていたことをみごとに定則化したものであると思い、膝を打つおもいで感嘆した。松陰がおもうに、学問ばかりやっているのは腐れ儒者であり、もしくは専門馬鹿、または役たたずの物知りにすぎず、おのれを天下に役だてようとする者は、よろしく風のあらい世間に出てなまの現実をみなければならない。(73頁)

 魏源による「聖武記附録」の一節に松陰が感動をおぼえたシーンである。こうした二つの相剋関係は、現代でいえば理論と実践というものが該当するだろう。両者を均衡させようという意識が強すぎてしまうと、低位均衡になってしまいがちだ。そうではなく、相矛盾するものをどちらも極めようとすることで、高位均衡の実現や新しい発想へと至れるのではないだろうか。

 自分は謹直なたちでそうはいかなかったが、それだけに、物事に熱中し、ついに人生そのものを入れあげてしまうような節斎の生活態度にあこがれるところがあり、そのことを松陰の用語でいえば、
 「狂」
 であった。松陰は、狂がすきであった。人間の価値の基準を、狂であるか狂でないか、そういうところに置くくせが松陰にはあった。(233~234頁)

 著者が、佐久間象山との対比で吉田松陰を描いている。なにか一つのものに人生じたいをコミットさせることを狂という表現で著している。松陰にとってそれは、勤王攘夷であり、そうした思想を藩という単位でコミットさせたのが長州藩の特異な特徴であろう。

 松陰はこの時期、気づいていなかったが、かれの無意識の志向やら性格やらは、専門技術を習得したり、それに熱中したりすることにはまったくむいていなかったらしい。(中略)
 頭では重要であるとおもいながら、気持のなかでは、魚河岸の隠語や符牒をおぼえているようで無意味のようにおもわれ、自分が志向している方角に対して直線的にはむすびつかないようにおもえる。
 要するに、この時期の松陰自身は気づかなかったが、専門者でなく総合者であるようだった。そのするどい総合感覚からあらゆる知識を組織し、そこから法則、原理、もしくは思想、あるいは自分の行動基準をひきだそうとした。(270~271頁)

 松陰と同じだとは言えない。しかし、彼の考え方にはとても共感ができる。細かな暗記や作業の繰り返しは飽きてしまう。そうではなく、自分が持っている様々な知識や経験を統合させ、そこから自分の現状に合った最適解を創り出す。松陰のようにありたいものである。

0 件のコメント:

コメントを投稿