2014年8月10日日曜日

【第319回】『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー、清水幾太郎訳、岩波書店、1972年)

 社会学を学んできた、と私自身は思っていた。しかし、本書を読まずして、社会学を学んだと言ってよいものだったのであろうか。社会学の大家による社会学を基礎から定義づける本書は、興味深く読むとともに反省させられる一冊であった。

 「社会学」という言葉は、非常に多くの意味で用いられているが、本書においては、社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学を指す。そして、「行為」とは、単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませている限りの人間行動を指し、活動が外的であろうと、内的であろうと、放置であろうと、我慢であろうと、それは問うところではない。しかし、「社会的」行為という場合は、単数或いは複数の行為者の考えている意味が他の人々の行動と関係を持ち、その過程がこれに左右されるような行為を指す。(8頁)

 この定義の中で、「説明」という言葉が使われている。著者がこの言葉に用いている定義付けが興味深い。

 行為の意味を研究する科学にとっては、「説明」とは、その主観的に考えられた意味から見て、直接に理解され得る行為を含むところの意味連関を把握することにほかならない。(16頁)

 社会学的な研究において、なんらかの事象を説明するということは、複数の行為の間に介在する意味の関連性を把握するということである、と著者はする。そうした意味連関の一つには因果関係が挙げられるだろう。

 或る具体的行為の正しい因果的解釈というのは、外的過程や動機が的確に認識されるだけでなく、同時に、その連関の意味が理解されるように認識されることである。類型的行為(理解可能な行為類型)の正しい因果的解釈というのは、類型的と思われる過程が或る程度まで意味適合的に見えると同時に、或る程度まで因果適合的と認め得る場合である。(20頁)

 意味の連関が認識されると共に、外的過程や動機が認識されることが因果的解釈には求められる。では、そもそもこうした社会学が想定する社会的関係とは何か。

 社会的「関係」とは、意味内容が相互に相手を目指し、それによって方向を与えられた多数者の行動のことを指す。従って、社会的関係というのは、偏えに、意味の明らかな方法で社会的行為が行なわれる可能性ということであって、この可能性が何に基づくかは、差当っては問題でない。(42頁)

 ここでも意味連関が要素として挙げられ、そうした意味がお互いに影響を与え合う複数人間の関係が社会的関係であるとしている。社会的関係がこうした定義となれば、企業における経営も社会的関係として捉えることは想像に難くないだろう。

 「経営」とは、或る種の永続的な目的的行為を指し、「経営団体」とは、永続的な目的的行為を営む行政スタッフを有する利益社会関係を指す。(85頁)

 行政という言葉が出てくるところが、現代における企業の経営とは異なる考え方であろう。しかし、ここで私たちが刮目したいのは、経営とは「永続的な目的的行為」であり、経営団体は「永続的な目的的行為を営む」組織であるという点である。私たちは、私企業における経営を時に営利を絶対的な目的として捉えてしまう現代の潮流を括弧に括るためにも、著者のこの指摘に改めて目を向けるべきであろう。


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