2014年7月20日日曜日

【第309回】『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1970年)

 上巻では第一部・第二部が扱われ、この下巻では第三部・第四部が収録されている。上巻に続き、ここにもニーチェの激烈な言葉が詰まっている。

 祈るのは、恥辱なのだ!だれにでもそうだというのではないが、あなたやわたしにとって、また知性の中にも良心が働いているものにとっては、そうである!あなたには、祈ることは恥辱なのだ! あなたには、よくわかっているのだ。あなたのなかの臆病な悪魔、ともすれば合掌し、むだな手出しはせず、平穏無事を願う悪魔ーーこの臆病な悪魔があなたに、「神はある!」と説きつけるのだ。 だが、そうすることによって、あなたは光を恐れる種族に加わってしまう。光のさすところでは、どうにも落ちつけない種族である。そこで、あなたはあなたの知性を、日ごとに深く、暗い霧のなかに突っこまざるをえなくなる!(62頁)

 困った時の神頼みという言葉を思い起こさせられる部分である。祈るときの状況について、冷静に客観的に省みることが必要であろう。祈ることによって、私たちの意識は自身から絶対的な他者へと移り、その結果として自身の良心の作用が弱まる。安易に他者に自身を委ねるのではなく、自身を強く保つことを、私たちは恐れてはならない。

 多くのことを中途半ぱに知るくらいなら、何もしらないほうがましだ!他人の思いすごしで賢者になっているよりも、自分の責任で馬鹿者であるほうがましだ!わたしはーー底の底までつきつめる者だ。 ーーその底の底が大きかろうと小さかろうと、それが何だというのだ?その名が沼だろうと天だろうと、それが何だというのだ?手のひらほどの底があれば、わたしとしては十分だ。もしそれがほんとうに根底になり基礎になりうるものであるなら! ーー手のひらほどの基礎。それだけあれば、ひとはその上に立つことができる。真の良心的な学問の世界には、大きなものも、小さなものもない。(185~186頁)

 学問について、研究について、考えさせられる言である。絶え間ざる実践を繰り返しながら、その知恵を抽象化し、理論へと繋げる。理論化の作用の結果として、私たちは基礎的な知を身につけることになる。こうした基礎的な知は、限定されたものではあれども、様々なものに援用可能なものである。さらには、抽象化と具象化という円環型プロセスを身につけることこそが、しなやかな応用可能性を高めることに繋がるだろう。

 あなたがたの能力をこえたものを欲するな!自分の能力以上のものを望む者は、悪質の虚勢をはることがある。(260頁)

 自分自身をあきらかに見極めること。仏教用語としての「あきらめる」を彷彿とさせる至言であり、思わずはっとさせられる言葉である。


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