2014年5月17日土曜日

【第286回】『行人』(夏目漱石、青空文庫、1914年)

 後期三部作の二作目。唸る文章表現に溢れながら、最後の章では主人公の兄の心情が手紙というかたちで描写され、漱石による近代的自我への考察が表れているようだ。

 それは夕方の比較的長く続く夏の日の事であった。二人の歩いている岡の上はことさら明るく見えた。けれども、遠くにある立樹の色が空に包まれてだんだん黒ずんで行くにつれて、空の色も時を移さず変って行った。(kindle ver. No. 119)

 情景をシンプルに描き出し、読む者に想起させること。この難しさをいとも簡単にしてみせるところに漱石の文豪たる所以があるのだろう。昼から夕刻へと映る様を巧みに描写しながら、場面展開も行っているところは唸るばかりである。

 自分はこういう烈しい言葉を背中に受けつつ扉を閉めて、暗い階段の上に出た。(kindle ver. No. 3713)

 最後の「暗い階段の上に出た」という表現が素晴らしい。単に「階段を降りた」とせずに、「階段の上に出た」とすることで、主人公がもの悲しい想いで、とぼとぼと階段に向かう様子が伝わってくる。

 四月はいつの間にか過ぎた。花は上野から向島、それから荒川という順序で、だんだん咲いていってだんだん散ってしまった。自分は一年のうちで人の最も嬉しがるこの花の季節を無為に送った。しかし月が替って世の中が青葉で包まれ出してから、ふり返ってやり過ごした春を眺めるとはなはだ物足りなかった。それでも無為に送れただけがありがたかった。(kindle ver. No. 4977)

 季節の推移を、内面描写によって描き出す。スピーディーな展開を表現しながらも、その間の主人公の心持ちを鮮明に描いている。

 兄さんの苦しむのは、兄さんが何をどうしても、それが目的にならないばかりでなく、方便にもならないと思うからです。ただ不安なのです。したがってじっとしていられないのです。兄さんは落ちついて寝ていられないから起きると云います。起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。歩くとただ歩いていられないから走けると云います。すでに走け出した以上、どこまで行っても止まれないと云います。止まれないばかりなら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云います。その極端を想像すると恐ろしいと云います。冷汗が出るように恐ろしいと云います。怖くて怖くてたまらないと云います。(kindle ver. No. 5502)

 この部分こそ、漱石が近代的人間と、その苦しみを描き出した箇所ではなかろうか。むろん、主人公の兄を描写した上述した部分は極端な例ではあろう。しかし、この本質は近代的な社会に生きる私たちの本質を抉り出したように思えてしまう。端的に言えば、進歩史観に基づき、過剰に自身を律しようとする苦しさである。

 「君でも一日のうちに、損も得も要らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」(kindle ver. No. 5564)

 前述した箇所と対になる箇所であると私には思える。常に前に進もうとし、もがき苦しむのが通常の近代人であるとしたら、そうした瞬間というのは人間の本質とは異なるもの人間性が顕在化しているものと言える。しかし反対に、進歩史観にとらわれず、いま・ここにある自分の本質が顕在化している瞬間こそが、主人公の兄の言う人間性の尊さと言えるのかもしれない。

 「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自我、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」(kindle ver. No. 5612)

 人間の自然の所作にこそ、神は宿るのであろう。特定の宗教を持ち出そうとした兄の友人Hに対する反論として出てきた上記の意見には、近代的人間が忘れがちな自然の所作の尊さが表れているようだ。


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