2014年3月22日土曜日

【第265回】『ヘーゲルとその時代』(権佐武志、岩波書店、2013年)

 ある思想家の是非について問うためには、その思想家が生きた時代背景や歴史という文脈を捉まえる必要がある。そうしたものを括弧に入れた上で批評を行なうということは、昨今のマスメディアが意図的に文脈を削ぎ落して発現者を貶める行為と変わらないと言わざるを得ないだろう。

 われわれは、自分が時代に制約されていることを自覚し、現在をより良く知るためにこそ、過去の時代を知り、歴史から学ぶ必要があるのだ。(ⅳ頁)

 さらには、思想家の生きた時代を知ることは、その思想と歴史そのものから学ぶことで、現在をより深く理解するということに繋がる。無から将来を想像するよりも、過去を振り返った上で将来を想像する方が、時間軸も空間軸も広がるという心理学の知見を援用するまでもなく、歴史を学ぶということは今と将来を考える視座を与えてくれるのである。

 こうしたスタンスに基づいて書かれた本書では、ヘーゲルが時代ごとに自分自身の思想をどのように変遷・発展させてきたのかを丹念に述べている。まずは、最初期の彼の思想について見ていこう。

 こうしてヘーゲルは、対立を取り入れた再合一を要求し、生を「結合と非結合の結合」として捉える。つまり、合一か分離かという合一哲学に特有な二者択一を取らず、分離を取り入れた再合一、すなわち「合一と分離の合一」が生の本質をなすと考える。しかも、ヘーゲルは、反省された形式が愛の本質に反するとは考えず、むしろ反省により感情を補完するように要求する。感情と反省を総合するこの考え方も、根源的存在は知的直観により直接に把握できるという合一哲学とは異なっていた。こうした矛盾し対立するものを結合する思考様式こそ、ヘルダーリンに見られないヘーゲル独自の思想の始まりを示しており、やがてヘーゲルがロマン主義から脱却する根本要因となるのだ。(37~38頁)

 「根源的存在は知的直観により直接に把握できる」とする従来の思想潮流に対して、ヘーゲルは「対立を取り入れた再合一」というアプローチを志向する。ここでは、合一か分離かという二者択一的な捉え方ではなく、対立構造を包み込んだ上での再合一という思想的展開という挑戦が垣間見える。では、相互に矛盾するものをヘーゲルはどのように合一させようとしたのか。

 ヘーゲルは、三位一体説を、神性と人性が併存するというカルケドン信条から解釈し直し、最後の「聖霊」(Geist)を、神性と人性、父と子を統一する神人イエスの理念に従い、理解しようとする。神人イエス説により再解釈された三位一体説こそ、地上と天上、理性と信仰の二元的対立を克服する手がかりをヘーゲルに与えることになる。だが、神人イエス説と三位一体説を統一的に把握するためには、ヘーゲルは、他者において自己へ還帰する「精神」(Geist)の概念を手に入れる必要があった。この精神の概念こそ、ヘーゲル哲学の中心理念をなすのである。(66頁)

 ヘーゲルは、二元的対立という相矛盾する概念同士を再解釈するために、三位一体説を用いることでその相克を克服しようとしたのである。彼の三位一体説を理解するためには精神という概念を捉える必要がある。もう少し深掘りしてみよう。

 ヘーゲルは、精神を自然から分かつ決定的差異、すなわち自己自身に冷静な距離を保つ反省能力を固く守り、これを自己二重化する精神という形で体系原理にまで高める。(中略) ヘーゲルにとり、神は、認識できない彼岸の「他者」でなく、「自己自身」の意識として、すなわち「精神」として認識可能な理念である。こうしてヘーゲルは、自己意識のモデルを三位一体説と結合することで、自己二重化する反省活動により、絶対者を「自己自身の他者」として内面化できたのであり、この結果として、ロマン主義から最終的に訣別したのである。(80~81頁)

 反省活動を促す精神と、その主体たる絶対的な自己自身により認識可能な神を包含させる三位一体説との結合が、ヘーゲルの思想の根幹であると著者はしている。ここから、彼の最も有名な概念である正反合という弁証法が生み出される。

 法の理念は、自由意志に始まる概念の規定を対立物へ移行させ、対立し合う両規定の自己否定と統一から肯定的成果を産出して、内在的に発展させる方法に従い展開される。このヘーゲル独自の方法が、ここで初めて「概念の弁証法」と呼ばれる。(111頁)

 精神と三位一体説との融合による正反合に基づいた弁証法から、自由意志という近代の自由主義社会の根幹を為すテーマが生み出された、という点に着目するべきだろう。彼が自由主義社会の理論的バックボーンを提供していたということはよくよく覚えておく必要がある。というのも、次に述べるようにヘーゲルの思想はともすると、ドイツのナショナリズムに援用されたために誤解を生じることが多いからである。

 ヘーゲル自身は、ドイツ統一の要求には否定的であり、フリースらのナショナリズム運動には敵対的態度を表明していた。だが、彼が説いた「理性の狡知」説は、国民国家の原理や戦争による紛争解決の思想と相まって、宗教的使命感に支えられたナショナリズムを正当化し、普遍主義と権力政策が結合するビスマルク帝国の世界政策を追認する機能を果たすことになる。(189頁)

 統一ドイツというナショナリズム運動へのヘーゲルの思想的態度とは反対に、彼の理論が「宗教的使命感にさせられたナショナリズムを正当化」する理論を提供したという点は皮肉である。さらに、そうした運動の背景となったヘーゲル思想という事象だけを捉えて、ヘーゲルがナショナリズムを煽ったと時に言われることは、彼にとって苦痛であろう。こうしたドイツのナショナリズム運動への援用という本意でないものも含めて、ヘーゲルの思想は後代の思想家に大きな影響を与えている。最後に、丸山眞男への影響について引用して本稿を終えることとしたい。

 日本思想の原型を古代日本の記紀神話に探った一九六〇年代の講義で、丸山は、ヘーゲルと同じ「歴史における理性」の立場から、日本の歴史意識の特徴を取り出している。丸山によれば、歴史意識は「永遠と時間との交わり」によって初めて自覚される、つまり永遠という縦軸と時間という横軸が、十字を切って交わると考える時に初めて、歴史の自覚が生まれる。これに対し、究極目的を欠き、「なりゆく」現在を絶対化する現在中心主義や、時勢の「いきほひ」が歴史の推進力をなす歴史主義が、日本人の「歴史意識の古層」をなすという(丸山、一九七二)。(205~206頁)


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