2014年1月11日土曜日

【第239回】『集合知とは何か』(西垣通、中央公論新社、2013年)

 機械が扱う知と人間が扱う知には違いがある。機械が知を生み出すのではなく、機械というツールを用いて人間が知を創り出す。したがって、人と人との集まりを機械によっていかに支援し、社会的・集合的な知を涵養することが重要である。これが本書における著者のメッセージの要約であろう。要約することによって捨象されたもののうち、とりわけ含蓄に富んだ部分について以下から述べていく。

 まず、集合知を創り出す環境において求められる一人ひとりの学びについて。

 彼らにとって授業とは、既存の権威ある知識体系を単にわかりやすく伝授してくれるものなのだろう。彼らはそういう教育ばかりうけてきたのである。ほんとうの学問とは、既存の知識体系を丸呑みにすることではなく、批判的に解釈することから始まるのだが、そういう作業は非効率な時間つぶしのように思っているのではないか。 受験勉強の弊害だといえばそれまでである。だがそれだけではない。知識社会というお題目のもとに、所与の知識命題の効率のよい処理だけが知的活動であるという幻想を植えつけた大人たちにも責任はあるのだ。(50頁)

 受験においては、公正性と効率性が過分に求められる。受験後に客観的に採点できるようにして受験者からの不平不満を未然に防ぐためにテストは公正なものとなり、ために解答が一つに絞られるものとなる。そうした逆算で正解が求められるテストに合格するために、問題と解答とが静的な関係であるために、結果から逆算して勉強を組み立てる方法を受験生に確立させる。さらには、そうした逆算すらを予備校や塾といった外部機関にアウトソースして、受験生はひたすら与えられた課題をこなすだけになる。こうして培われた学習観では、学びにたのしさを見出すことは難しいだろうし、そうした人材は知識社会での主体として貢献はできない。とりわけ受験の「勝者」と呼ばれる方々の方が難しいのかもしれないが、旧来の受験勉強における学習観を忘却学習するという、いわば学習のメタ・アンラーニングが必要だ。

 観察というと、遠くから対象をじっと眺めているような気がするかもしれない。だが、生き物の認知観察行為の原型は、むしろ自分が動きまわって対象と主体的にかかわることになる。(中略) 世間の常識では、知識とは、天下りに与えられ、勉強して丸暗記すべき所与の客観的存在とみなされている。だが、知識の出発点とは、本来、主観的な世界イメージの部分的な様相の表現だったはずである。(90頁)

 旧来の学習観が客観的に存在する正解を丸暗記するという受身的なものであったのに対して、現代の知識社会において求められる学習観とは主体的なものだという。「主体的な観察」という言葉遣いの中から、観察対象は自身で決めること、観察のしかたも自身で試行錯誤すること、観察結果の関係性を自身で結びつけること、ということが読み取れる。

 細胞は、外部から与えられる設計図なしに、自分と似た細胞を次々につくりだす。(中略)個々の細胞だけではない。脳神経系も免疫系も、自分で自分をつくりだすのである。(中略)自分で自分を創りだすとは、作動の仕方も自分で決めるということだ。だから生命体は「自律的(autonomous)」なシステムでもある。 これに対して、機械は他の存在(人間)によって制作され、また他の存在(いわゆる出力)をつくりだすので、「アロポイエティック・システム」である。(中略)また、設計されたとおりに作動するから「他律的(heteronomous)」なシステムでもある。(100~101頁)

 機械との対比を行いながら、人間にとっての知の創出プロセスについて、細胞レベルで論じられている。ここでの鍵概念は自律的という概念だ。与えられたものを粛々とこなすということではなく、自分自身で試行錯誤しながらWHATとHOWの双方を見つけ、状況に合わせて更新し続ける主体的なプロセスである。

 ここまでは、知識社会において求められる個人の主体的な知識創出プロセスについて見てきた。次に、そうした主体を前提とした上で、社会として集合知をいかに紡ぎ出していくのかについて見ていきたい。

 興味深いのは、こういった社会的組織においては、コミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作動がおこなわれていることだ。社会的組織には特有の言語概念をもつ伝統や文化があって、一種の知識として記憶されている。その記憶をもとにコミュニケーションが発生し、またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミックスは、再帰的に思考をうみだす心のダイナミックスと基本的に変わらない。(105頁)

 一対一のコミュニケーションが、他者を巻き込んだ広いコミュニケーションを生み出すという自律的な循環プロセスを著者はここで述べている。ダイナミックスというとポジティヴなイメージがあるが、循環ということは負の連鎖もまた組織においては容易に連鎖し得るということに留意するべきだろう。私たちは、コンプライアンス違反をした企業が、社会の論理よりも会社の論理を重視してきた事実を他山の石として肝に銘じるべきである。

 コミュニケーションとは瞬間的に成立するミクロな出来事である。知識形成というプロセスにおいては、コミュニケーションに加えて、いっそう長大な時空間でおこなわれる「意味伝播」というマクロな出来事が不可欠である。これは「プロパゲーション」とよばれる。 プロパゲーションとは、端的には、HACSの記憶(意味構造)の長期的な変化である。AとBが対話をつづけコミュニケーションが継続発生していくと、時間とともにやがて、AとBの各自の記憶に変化が生じてくるはずだ。(中略)AとBそれぞれのHACSにおける記憶(意味構造)の漸次的な変化が、プロパゲーションなのである。 いっそう大切なのは、Cによる記述自体の変化発展である。Cのブログは、(Cの心というHACSの意味構造ではなく)AとBの上位にある社会的HACSの意味構造そのものなのだが、これも時間とともに深められ拡大されていく。(中略) コミュニケーションとプロパゲーションをつうじて、クオリアのような主観的な一人称の世界認識から、(疑似)客観的な三人称の知識が創出されていく。形づくられるのは、一種の社会的な「知識」であり、「意味」である。(109~110頁)

 集合知は自律的なプロセスの循環として生み出される。ために、知識は静的なものとして存在するのではなく、動的なものとして絶えず変化を繰り返す。Aが発話した際に込められた意味合いは、Bに少し異なって受け取られ、AとBとの対話を記録するCにはさらに異なった観点から記述されるだろう。こうした自律的な社会的な知識創出プロセスに対しては、自分の発話の意図に徒に固執するのではなく、他者の異なる観点を受容し、柔軟な態度でたのしむというメンタリティーが求められるのではないか。

 第二の点として、集合知を生み出すプロセスについて眺めてきた。最後に、このような集合知が生まれる場およびツールについて見ていこう。

 フラットで透明な社会、つまり、情報が迅速に伝わりすぎる社会で、質疑応答による議論をしていると、かえって社会は安定しなくなり、適切な秩序ができにくくなる。過度に均質化され中央集権化されてしまうか、逆にアナーキーな無秩序状態になりやすいのだ。 人間集団のなかに、ある種の不透明性や閉鎖性があるからこそ、われわれは生きていけるのである。情報の意味内容がそっくり他者に伝わらないというのは、本質的なことなのだ。(207~208頁)

 コミュニケーションは、迅速で躊躇なくできるものが良いとされがちだ。たしかにそういった側面があることに異論はないが、あまりにスムーズに流れすぎるコミュニケーションにもネガティヴな側面があることに留意するべきだろう。だからこそ、うまくいかないコミュニケーションや、理不尽な場面に対してもおおらかに対応することが、私たちには重要なのだろう。

 ネット集合知にしても、その第一の使命は、ローカルな社会集団のなかで問題解決能力を高めることにある。とすれば、性急な多数決などではなく、多様な価値観を組み合わせ、必要におうじて妥協をもとめつつ合意点を見出すような方向が望ましいのではないか。(210頁)

 民主的=多数決と捉えられるのは、学校教育の為す害悪の一つであろうか。むろん、国政選挙といった特殊な状況において多数決による議員の選出プロセスが行われることに異論はないが、普遍的な原理として多数決を採択するのは誤りだ。多様な価値観の表出を許容し、そうした価値観の異なりを特定のイシューにおいていかに統合するか、というプロセスに私たちは重きを置くべきだろう。そうした一つひとつのプロセスが、一人ひとりでは生み出し得ないゆたかな集合知を生み創り出すことに貢献するのだから。


0 件のコメント:

コメントを投稿