2013年12月15日日曜日

【第230回】『ひとの居場所をつくる』(西村佳哲、筑摩書房、2013年)

 ふと立ち止まり、深呼吸をして、五感を解放してみる。すると、周囲の見慣れた風景の中から、普段は気付かないものが立ち上がり、いつもと異なった世界がそこに広がっていることに驚くことがある。

 著者の本は、これまでも好んで何冊も読んできた。読むたびに、忙しい日常の中で立ち止まることの大切さに気付かされる。ランドスケープ・デザイナーである田瀬理夫さんとの対談をもとにして編まれた本書もまた、ページをめくりながら、何度となく心地よい深呼吸をすることとなった。

 以下では、読みながら思わずハッとさせられたポイントについて、述べていくこととしたい。まずは、感覚を解放するという点について三点から解説を試みる。

 わたしたちが毎日くり返している、ごく他愛のないことの積み重ねが文化であり、景観をも形づくる。 その累積を可能にするのが自分の仕事だと思っているし、そのための試みを自分たちなりにつづけているんです、ときかせてくれた。(11~13頁)

 文化とは意識的に創り出せるものではない。また、要素還元的に因数分解を行い、何をもって構成されているかを論理的に記述することもできない。そうではなく、日常の、個別具体的な、行動や人の有り様の蓄積によって、文化は、嫌が応にも形づくられる。こうした環境との相互交渉を通じた自然の営為を、人がしっくりするかたちで、文化として蓄積することをデザインすること。こうした行為は、景観という観点では田瀬さんの職業であろうが、異なる観点に置き替えてみれば、仕事をする私たち一般にも当てはまるのではないだろうか。こうしたいわば美意識に近いものを持っているか否かによって、仕事を通じて生み出す価値は異なってくるように思える。

 ランドスケープ・デザインは、境界線を消すというか、解き放つというか、そんな仕事だと思う。(144頁)

 境界線を引く作業とは、理性によって分類・識別を行うことによって、自と他を分けることだ。むろん、境界線という存在自体が悪であるということではなかろうが、境界線があまりに多い状況というのは、人間的な営為とは矛盾するものだろう。田瀬さんは、あまりに多い境界線を消し、理性によって制約されすぎた世界を、感性に解き放つということを意識して活動されているのだろう。

 現代的な生活の中で耳にする音は、どれも近い。音楽も電話も耳の中まで入り込んできたし、テレビやオーディオまでの距離は数メートル。キャンプにでも行けば話は別だけれど、遠くの音に耳を澄ませる機会は、都市生活者の日常にはほぼないだろう。 こうした環境の中で、意図せず「自分」の宇宙というか領域感覚が小さくなっている者同士が集まって、これからの社会のあり方や暮らし方について話し合っても、概念的になりやすい気がするし、小さな空間の充実が散積してゆく事態に留まってしまうんじゃないか。(256~257頁)

 私たちの感覚意識が解き放たれず、あまりに狭い領域に集約している現代社会に対する著者の警鐘と捉えてよいだろう。外界をセンスする上で、近くのものしかセンスしていなければ、世界観は狭いものとなってしまう。その結果、私たちは遠くの物音を聞かないこと、遠くの景色を眺めないこと、理性で識別できない感覚をセンスしないこと、が当たり前となってしまう。これは、日々の生活の蓄積が人間にとってネガティヴに作用し、現代の悪しき文化となりかねない。

 ここまで取り上げた感覚を解放することの重要性を理解した上で、私たちの日常の生活や仕事においてどのように活かすか。著者と田瀬さんの対談から、そのためのヒントとなりそうな示唆に富んだポイントを三点紹介する。

 この場所を人間だけでなく「馬」とともに営んできたことも大きいのかも。人の思惑や事情とは無関係に生きている生き物がいて、日々待ったなしの事態を引き起こしてきたことが。同じく、年周期の中でくり返される畑や田んぼの仕事も、彼らを駆動してきた大切なエンジンなのかも。 時間をかけて土地にかかわってゆくとき、個人の事情に拘泥せずに済むリズムや軸があるのは大切なことかもしれない。(30~32頁)

 遠野で生活を送る田瀬さんならではの言葉である。動物と関わることの大切さ、という点も無論あろうが、日常的に動物と関わることは都会に住む人々にとっては難しい。そこでここでは、「日々待ったなしの事態」が引き起こされるという点に着目したい。私たちの日常の仕事の中において、突発的な業務や、理不尽な指示、際限のないルーティンワークと手戻りの繰り返し、といった「待ったなしの事態」はお馴染みの現象だ。そうした制約をネガティヴなものとして捉えるのではなく、肯定的に捉えることができるのではないか。換言すれば、○○という制約がなければという思考様式を私たちはよく取りがちであるが、果たして制約がなければすべてが解決するということはあるのだろうか。むしろ、制約が多い環境であるからこそ、私たちは意識的であろうと無意識的であろうと、私たちにとって本質的に大事なものを選べるということがある。

 生態系(自然)の力を活かしながら、糧として人が必要な収量を得てゆくには、せめぎ合うものがありますよね。でもそれは、人生のデザインそのものという気がする。(40~41頁)

 先ほどの点においては、日々の生活や仕事の中における制約というスパンであったのに対して、ここでは人生という長いスパンにおける視点で捉えられている。日々の制約の積み重ねが人の人生を形づくるものであり、かつ、それはデザインである。つまり、自分自身が主体的に環境を形成するということでは必ずしもなく、むしろ環境を受け容れ、環境とのすり合せを豊かにすることで、現在の自分自身の有り様や他者との関係性を創り上げる。人生のデザインとはこうしたことなのかもしれない。

 人生のマスタープランはないです。そういうの立てたことない。それは成り行きというか、なるようにしかならないというか。 なにも思い通りにはならないですよね。 ただ「自分はああしてみたい」「こうしたい」という、「したい」ことが、なにについて多いか?というくらいの話だと思います。思い通り、計画どおりにやっている感じではないですよ。仕事も人生も。(166~167頁)

 人生や仕事について、目標を立てて計画へと落とし込むというアプローチを取らないとしても、徒に帰納的にのみ捉える必要性もまたない。ではどのように構えると良いのか。田瀬さんは、方向性について自分自身の感覚も含めて捉まえることの意義をここで触れているように私には思える。こうした捉え方は、キャリア理論において述べられている点と近しく、大変興味深い。(『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)


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