2013年8月17日土曜日

【第190回】『ルネサンスとは何であったのか』(塩野七生、新潮社、2008年)

 ルネサンスとは何か。著者は「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質」(15頁)と端的に結論づけている。

 むろん、こうしたインプットへの欲求は、アウトプットされることを伴う。文章であれ、絵画であれ、スピーチであれ、なにかを知悉し理解するためには、自身の内面を外化することによって、本質に至れるものである。組織心理学者カール・ワイクの言ではないが、自分がなにを考えているかはアウトプットしてみないと分からないものである。

 こうしたルネサンス期の特徴を生み出した背景はいったいなにか。内的世界をアウトプットすることが、キリスト教会によって抑圧されてきたことが挙げられる。というのも、キリスト教の教義では、信じる者は救われるとして、疑うことを否定してきた。ルネサンス以前の時代において内に押し隠されてきた外的世界や内的世界への疑義や探究心がルネサンス精神として外に押し出されたのである。

 このようなインプットへの尽きない欲求が、アウトプットとして一つの芸術スタイルを確立したということがルネサンス期における精神運動の本質であった。インプットへの欲求がアウトプットを生み出すというルネサンス期の特徴が、その時代を象徴する一人であるレオナルド・ダ・ヴィンチを未完成の創作家にしたといういう。その理由を著者は二点挙げている。一つめは、自分自身が思い描く内的世界をアウトプットしきれないというギャップに苦しんだからではないかという仮説。内面を外化しきれないのであれば、途中で創作を止めるという考え方である。

 二つめは、創作途中の段階で完成像を鮮明に描けてしまうため、最後まで完遂しなかったのではないかという仮説が挙げられている。内的世界を外化するための手段としての芸術活動は、内的世界を探るためのプロセスである。自身の内面に問いかけ、それを少しずつアウトプットすることで、結果的に自身の内的世界が外にかたちとして表れる。むろん、最初にテーマや方向性は存在するだろうが、それが完全に見えるということはない。したがって、途中の段階でゴールがくっきりとイメージできてしまう場合、内的世界の外化がルネサンス期の芸術の本質であるのならば、その段階で創作を止めることは理解可能だろう。

 インプットへの探求がアウトプットの欲求を促す。とはいえ、全員が芸術活動というかたちでアウトプットするわけではない。何がレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといった芸術家と普通の市井の人々とを分けたのか。著者は、謙虚と傲慢不遜という一見すると矛盾するように思える二つのスタンスを兼ね備えた点をその解として指摘している。世界を探求してそれを描き切れるという傲慢不遜な意識を持ちながら、偉大な世界を容易に描き上げられるわけがないという謙虚な姿勢を保つ。普通の人であれば精神が分裂しかねないものを、高次な次元で止揚するのが芸術家の為せるわざなのだろう。

 だからといって、後世の<普通>の私たちが、そうしたルネサンス期の芸術作品を畏怖して鑑賞する必要はないと著者は述べる。「天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在もである」(240頁)という言葉を意識しながら、芸術鑑賞をしたいものだ。インプットを探求してアウトプットを求める姿勢は、現代にも通ずる部分が大きい。現代に生きる私たちにとって、先述した著者のメッセージは、芸術鑑賞だけに留まらず、私たちのライフやキャリア全般においても適用すべき至言と捉えるべきであろう。

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