2013年7月20日土曜日

【第179回】『成長する管理職』(松尾睦、東洋経済新報社、2013年)

 ノウハウ本は、個別具体的な個人のイベントをもとに書かれているために、著者か内容に興味があれば読み進め易いというメリットがある。しかし他方で、文脈依存性が極めて高いために著者の自慢話にすぎないものも、残念ながら多い。それに対して、学術書はとっつきにくいものであろうが、本質が抽象化されているために文脈依存性が弱められ、読者が自身の課題に合わせて加工することができる。読み応えのある学術書ほど、考えながら行動することが求められる現場での応用や実践ができるものなのではなかろうか。

 本書で著者が明らかにした知見のうち、経験と能力の関係性、良質な経験を生み出す先行要因、こうした点を踏まえた実践的含意、という三点にここでは着目したい。

 第一に経験と能力の関係性について。部門を超えた連携が求められる経験は多様な観点からの情報分析力を高め、部下育成の経験は部署全体での目標共有力を高め、変革参加の経験は事業実行力を高める、ということが考察の結果として明らかとなった。このうちの変革の経験が事業実行力を高める度合いは、他の二つと比べて低いことも考察された。このことは、変革に参加する経験の質と量が不足していることに加え、事業実行力が高まっているマネジャーが少ないという調査結果から推察される。したがって、日本企業においては、変革の経験から事業実行力を高める度合いをいかに担保するか、が経営課題になることが考えられる。

 この点を検討する上で、キャリアの段階ごとにおける経験と能力の関係性は大きく異ならない、という著者の分析結果に注目するべきであろう。つまり、担当者時代の経験が課長になってから発揮できる能力への影響、課長時代の経験が部長になってから発揮できる能力への影響、といったキャリアの段階ごとに経験と能力の関係性の差異は小さいのである。したがって、マネジャーになってからの経験に私たちは過度に依存する必要はないのである。マネジャーになる前の担当者時代に経験を積んでおけば、マネジャーとして必要な能力を身に付けることができるということを意味するからである。

 では経験をいかに自分の職務に引き寄せるかが次の問題となる。これが第二のポイントとして掲げた経験の先行要因である。著者は、経験学習には経路依存性、すなわち「過去にどのような経験をしているかによって、現在の経験が規定される傾向」(139頁)が存在することを本書で明らかにしている。こうした個人レベルでの経験学習プロセスに経路依存性が存在することを明確にした点は本研究の理論的な新規性である。

 個人の経験学習において経路依存性があるということは、換言すれば、過去の経験が現在の経験を生み出すということになる。ではどのように良質な経験のスパイラルが始まるのか。著者は、社会関係資本の蓄積をその起点と置くことの妥当性を示唆している。すなわち、社内の上司、斜め上の上司、先輩や同僚をはじめ、社外のネットワークも含めた多様な社会関係資本を持つことで、良質な経験を得られる機会が高まるということである。こうした社会関係資本を蓄積するためには、学習志向によって挑戦的経験を引き寄せることが重要であると指摘されている。つまり、偶機が訪れるのを受動的に待つのではなく、「挑戦・好奇心・独自性を重視」(143頁)する学習志向を強めるという主体的なアプローチが必要なのである。

 上述したポイントを踏まえて、企業における人事・人材育成上の実践的含意についても触れられている。これが着目すべき第三のポイントである。まず、部門連携により情報分析力を高めること、部下育成により目標共有力を高めること、変革参加により事業実行力を高めること、という第一のポイントで指摘した経験から能力へ結びつける三つの学習系統を連動させることである。それぞれの学習系統は相互に連動しているため、個別に学ばせても機能しづらいからである。次に、キャリアの段階による学びに大きな違いがない以上、キャリアの初期段階から挑戦的な経験に身を投じさせることが求められるだろう。最後に、周囲からの支援を引き出せるようにしくみを整えること、しくみを利用できるだけの個人の態度や姿勢の準備を促すことの重要性が述べられている。

 このように考えれば、「人事・人材育成上」の実践的含意と銘打った通り、上記の三点を踏まえるためには教育や研修という単独の施策では機能しないことが自明であろう。これは座学が機能しないという次元の話ではなく、ダイアログであろうとアクション・ラーニングであろうと教育施策という単独の手段の限界を指摘したいのである。すなわち、教育という一つの人事の機能だけでは対応できないということである。部署の設計や人材の配置といった組織デザイン、職務の創り込みや流動的なワークスタイルの許容といった職務デザイン、マネジャーによる部下育成やネットワーキングを促すような評価制度。このような人事の諸機能の横串を通すこととともに、人事というスタッフ部門だけではなく、経営やラインのマネジャーに横串を通すことも求められるのである。

 最後にポイントは逸れるが興味深かった点をもう一つ。序章で学習と成長という概念の差異について定義が為されている。学習については「経験を通して知識・スキル・行動が変化すること、すなわち能力が変化すること」(29頁)と定義されている。つまり、学習そのものは価値中立的な存在であり、ポジティヴな学習だけではなくネガティヴな学習も存在する。無気力の学習や学習性無力感などは後者の典型例であろう。こうしたネガティヴな学習を捨象するために、著者は「業務を遂行したり問題を解決するうえで必要となる能力(知識・スキル・行動の総合体)を獲得すること」(29頁)というように成長を定義し、書名にもあるように成長に焦点を置いて議論を進めている。全ての言葉について学術書におけるような細かな概念定義は不要であろうが、せめてキーとなる言葉については日常の業務の中でも概念定義をしっかりと行いたいものだ。


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