2013年5月6日月曜日

【第156回】『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー、原卓也訳、新潮文庫、1978年)


 三十路に足を踏み入れる少し前から、苦手であった小説に再度目を向け、また物理や化学の入門書も好んで読むようになった。英会話レッスンを受けているチューターにそのエピソードを話したら、「それはmatureになったからじゃないの」と一笑に付された。人の好みの変化とはそのようなものかもしれない。ビールの喉越しを心地よく感じられるようになること、ワサビの苦味が分かるようになること。こういったことと並列して、読書の傾向が変わることということも挙げられるのかもしれない、と得心してチューターには「totally agree with you.」と返した次第である。

 本書は、昨年夏に読んだ『罪と罰』以来のドストエフスキー作品である。救いがないような陰鬱とした場面がほとんどであるにもかかわらず、ここぞという場面で対比的に人間精神のすばらしさを明示する著者の技量はさすがである。

 「お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよーーこれがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。」(上・185頁)

 主人公・アリョーシャが、敬愛するゾシマ長老から遺言として諭された言葉である。後に起こる重大な事件を暗示させる恐ろしい言葉が含まれており、私たち読者は悪い予感をおぼえながらこの先を読み進めることとなる。しかしそれと同時に、悲しみの中で幸せを見出すという極めて肯定的なメッセージが明示されている点にも注目すべきだろう。かつ、幸せとは受身的に待っていれば得られるということではなく、あくまで自ら主体的に働きかけることでアプローチできるというところにより注視したい。

 「あさはかにも、富を貯えれば貯えるほど、ますます自殺的な無力におちこんでゆくことを知らないのです。なぜなら、自分一人を頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類も信じないように自分の心を教えこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね。個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しかし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終りがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。」(中・104頁)

 ゾシマ長老が自らの死に際してアリョーシャをはじめとした弟子たちに伝えた物語の一部である。筆者をして、近代市民社会ひいては個人主義の行き過ぎに対する警鐘を述べさせている。ここにある危惧は、コミュニケーション不全の問題、「格差社会」という言葉に示される問題、孤立化や孤独死といった問題、というかたちで現代社会にそのままかたちとして表れている。社会に対する問いかけ、そうした社会の中で生きる人々への警句に満ちた刮目すべき箇所であろう。

 「胸がいっぱいだったが、なんとなくぼんやりしていて、一つの感覚も際立たず、むしろ反対にさまざまの感覚があらわれては、静かな淀みない回転の中で次々に押しのけ合うのだった。」(中・238頁)

 敬愛するゾシマ長老の死を受けて、悲しみに沈みながらも気持ちを整理しようとするアリョーシャの心情を描写したシーンである。あまりに悲しい事象に直面した時、人の中にある感情というものはこういった複雑なものなのだろう。なにもかもが悲しく思えるということではなく、それを整理しようとする感情もあり、また自身の内部や外部に対してセンスできる領域が広がる、といった感覚もあるのだろう。一つの悲しい外的な出来事に対して、内的には複数の世界観が広がるという著者の描写にこそ、多様であり複雑な人間模様がくっきりと明らかになっているように思える。

 「僕は君に信と不信の間を行ったり来たりさせる。そこに僕の目的もあるんだからね。新しい方法じゃないか。現に君はまったく僕を信じなくなると、すぐに面と向って僕に、僕が夢じゃなく本当に存在するんだと強調しはじめるんだからね。(中略)もう一度言うけれど、要求を節することだね。僕に《すべての偉大な美しいもの》なんぞ要求しないことだ」(下・346~350)

 アリョーシャの次兄であるイワンが譫妄症に苦しむ中で、もう一人の自分である幻覚と対話するシーンである。譫妄症という悲劇的な情景の中において、著者が、信と不信を行き来させるという二項対立を描き出している。その上で、何かを信じることと、何かを信じないこと、という二項対立を弁証法的に解決する第三の態度を最後に強調している。この点は「仏にあっては仏を殺す」という『臨済録』を想起させ、含蓄ある思弁は古今東西を問わないことの典型であろう。

 「みなさん、君たちはみんな今から僕にとって大切な人です。僕は君たちみんなを心の中にしまっておきます。君たちも僕のことを心の中にしまっておいてください!ところで、これから一生の間いつも思いだし、また思いだすつもりでいる、この善良なすばらしい感情で僕たちを結びつけてくれたのは、いったいだれでしょうか、それはあの善良な少年、愛すべき少年、僕らにとって永久に大切な少年、イリューシェチカにほかならないのです!決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生きつづけるのです!」(下・655~656頁)

 アリョーシャの友人であるイリューシェチカ少年の死を受けて、それを悼む友人知己に向って、哀悼と自分の旅立ちとにおけるアリョーシャの餞の言葉である。上巻の後半にあるイワンによる大審問官の件が本書のハイライトであると巷間では言われることが多いが、私はむしろこの最後の件が、希望を見出せるために印象深い。冒頭でも述べた通り、基本的に暗いトーンが占める本作品の中において、死を扱うために筆致を抑えながらも底抜けに明るいこの部分が清々しいのである。大事な人との別れや、節目となる旅立ちといった人生の岐路において、思い出したい一文である。

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