2013年3月23日土曜日

【第144回】『善の研究』(西田幾多郎、青空文庫、1911年)


 京都を訪れる際には哲学の道を歩くようにしている。川辺を歩き、ベンチで本を読み、静かな茶屋で抹茶をいただく。こうした贅沢な時間がたまらなく心地よい。慈照寺から南禅寺へと連なるこの道が哲学の道と呼ばれるのは、本書の著者である西田が思索に耽りながら散策していたからだと言われる。京都学派の創始者でもある著者の本はぜひ読みたいと常々思ってきたが、極めて難解であるとの評価が気になり二の足を踏んできた。しかし、Kindleで本書を気軽に読めるようになったために重い腰を上げて読み進めてみたところ、やや回りくどい言い回しは見られるが論旨自体は思いのほか分かり易い。哲学書であるために本質的な問題に対する踏み込んだ記述が多く、知的好奇心を満たす良書であると言えるだろう。

 まず興味深い点は、著者は、意志の本質を、未来性ではなく現在性に置いている。これは一般的な私たちの理解とは異なる見解であろう。彼は意志に伴う未来における動作は意志の要素と捉えず、内面における意識の頭角作用を意志の構成要素と見做しているのである。この際に、内面における主観的意識と、外界に対する客観的意識とが統一されるとし、こうした主客の統一という考え方は随所に表れ、著者の基幹を為す考え方であろう。

 主客統一は自然観にも表れる。自然とは、単に私たちが客観的に認識する客体として存在する抽象的概念ではなく、主客を具した意識の具体的事実である。したがって、あるがままの自然という抽象的存在としてではなく、私たち人間の主観的認識と綯い交ぜになった統一作用の結果として表れるものである。したがって、自然の意義や目的を理会するためには、私たち自身の理想や上位の主観的統一に依存することになる、としている。

 さらには精神にも主客統一が関係する。実在を把握するのは種々の体系であり、体系における統一が個々人で異なるために生じる矛盾や衝突によって、体系的統一が自覚される。こうした衝突や矛盾のあるところに精神がいわば形作られ、精神が矛盾衝突を生み出すという相互依存関係があるのである。

 このように考えると、一人ひとりの意識現象は、単独で成立するものではないということになる。意識現象は、必ず他との関係があってはじめて成立するのである。したがって、人格的に善であるということは、全体との関係や位置づけによってはじめて善として認識されることになる。著者はこの考え方をさらに進めて、自己の外面における客観的理想と内面における主観的理想とが一致することが善であるとする。そして、こうした善の行為は必ず主客合一の感情、すなわち愛に通ずるとする。

 こうした理想の主客統一の状況においては、自己という意識を忘れ、自己には不可知な巨大な作用が働いている。これが、主体も客体も存在しない真の主客合一の状況であり、知即愛、愛即知という理想状況であり、愛により相互の感情を直覚することができるとしている。

 では主客の統一とはいかにして行われるのか。

 この壮大な問いへの回答として著者は宗教を挙げる。真の宗教的覚悟とは、単なる抽象的知識でもなく、また単なる盲目的感情でもなく、知的直観であるとするのである。宗教的要求は、意識統一の要求であり、宇宙との合一の要求に解を与える作用を担うとする。たしかに、学問道徳の本質に宗教があるとする著者のこうした見解が、著者の評価を分けるきわどいポイントにも繋がっているという側面はあるだろう。また、安易に宗教を主客合一の解に持ってきているようにも思える。しかし、主客合一の重要性を説き、その問いに対する回答を試みようとして踏み込んだ議論を展開していること自体に意義があるのではないだろうか。



『竹田教授の哲学講義21講』(竹田青嗣、みやび出版、2011年)
『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(東浩紀、講談社、2011年)
『サンデルの政治哲学』(小林正弥著、平凡社、2010年)
『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)

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