2013年3月9日土曜日

【第142回】『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)


 きれいな日本語を読むと心が洗われる。日常の些細な風景までもが、新鮮に思えてくるから不思議だ。新しい枠組みを通して眺めると見えてくる世界はこれまでと異なったものとなる。きれいな文章を読むと、こうしたことが起こるように私には思える。

 著者については、筆名よりも社会学者・見田宗介として名前を目にすることが多く、真木悠介という筆名で書かれた書籍を読むのはこれが初めてであった。自分にあった著者を見つけることはそれほど楽なことではない。友人からいただいた本であり、うれしい発見であった。もう何冊か読み続けようと心に決めている。

 自然をどれほど豊かにセンスできるかが、ともすると人間が自然と切り離された日常を送らざるを得ない私たちの感性を規定する。おそらくは、身体感覚からのフィードバックをどれほど大事にできるかが鍵となるのではないか。日常の中でも、新しい動きをしてみること、新しい関係性を築いていくこと。そうした新しいアクションをいかに創り込み、そのフィードバックループを自ら開発していくか。こうしたことが自然や宇宙という壮大なものへの感応性を豊かにすることに繋がるのである。

 ではこうした外界をどのように認識するのか。著者は、図と地の関係をもとにして紐解きながら、<焦点をあわせる見方>と<焦点をあわせない見方>という二つのものの見方を対比しながら論考をすすめている。<焦点をあわせる見方>を用いるとは、すなわち、<図>に意識が偏り<地>を無視することである。したがって、自身が予め有しているものの見方の枠組みに則り、その枠組みを通してみられるもののみをもって「これが世界である」と認識する態様に繋がる。

 他方で<焦点をあわせない見方>が大事なのではないだろうか、というのが著者のスタンスであろう。この見方では、<図>というよりも<地>への意識を強めることになる。したがって、自身のこれまでの枠組みからこぼれ落ちるようなものへと意識が向くことになる。特定のものへ意識を向けるというよりも、予期せぬ多様な異物への自由な構えである。そうしたおおらかな構えこそが、世界の<地>の部分に関心を払うことであり、豊穣な世界を認識するということになるのだろう。

 外界の認識の変容は、私たちの生活の捉え方もまた変容することになる。私たちはつい自分たちが行うことに外的な意味を求めてしまう。なにを行うことが正解なのか、いま行っていることにはどういうメリットがあるのか、他者から認められるためになにをするべきか。外的な意味が満たされていることによって内的な生活に意味があるという論法で捉えてしまうことは、<焦点をあわせる見方>に偏りすぎているということであろう。そこには、心の奥底から発露するような感情は出づらい。<焦点をあわせない見方>により、内奥から密度が満ちていくという感覚を持つことが大事なのであろう。

 私たちの生活に密接に関わるのが労働である。労働とは、生きるために必要な金銭を得るための対価としても捉えることができる。他方で、人間生命の発現としての労働というものを考えられるとしたら、という前置きをした上で、著者は、そうした労働観においては人間と人間との関係で捉えるべきではないとする。そうではなく、人間と自然の関係を根本から変える有り様が必要であるとする。職業人として働く身としては、こうした有り様をイメージできないながらも、なにか心の琴線に触れるものがあるようにも思える。それは到達点としてのイデアのようなものではなく、そこを目指しながら、その過程で自分にとってしっくりとくるものをデザインし続ける作用なのではないだろうか。そうした有り様が、<焦点をあわせない見方>で物事を捉えることであり、外的な意味ではなく自身の内側から満ちてくる生活へと繋がるのかもしれない。

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