2012年1月28日土曜日

【第67回】“Steve Jobs”, Walter Isaacson, Simon & Schuster, 2011

Even before I started to read this book, I had regarded Steve as an unique and great business person. But after I finished reading it, my feeling was a little bit changed. I started to respect him. What’s the difference between other smart business persons and Steve? I want to show you the reasons from the viewpoint of his character and business strategy.

First viewpoint is about his character. There are three features which I strongly noted.

He did big emphasis on completion of ‘his’ products. Why did he do so? The answer was come from his birth. It is very famous that he was adopted right after he was given birth. From his comment in this book, “Knowing I was adopted may have made me feel more independent, but I have never felt abandoned. I’ve always felt special.” Thinking his birth deeply made him feel some kind of special feeling. And it caused him control whatever products he was engaging.

Next feature is about his attitude to money. At the time Apple went public and he became worth $256 million, he was only 25 years old. As is often the case with people who became millionaire very young, too much money makes his or her passion for business or makes them lazy guys. But Steve was different from these cases. He had strict mind. When he reflected the time of Apple’s going public, he said, “I made a promise to myself that I’m not going to let this money ruin my life.”

This strict mind also faces to other persons. This is why he always lost his temper to his colleagues. He might have huge expectations to them. So, if someone couldn’t satisfy his expectation, he couldn’t stand it, and he couldn’t control his feelings. And also he seemed to have capacity to know other people’s weak points, he sometimes crushed his colleagues at last. On the other hand, some colleague said in this book that “People who were not crushed ended up being stronger.” His mind for completion was a hard test whether he or she lasted to work as his colleague, for good or ill.

Second viewpoint is his business strategy. There are also three features about it.

The first one is about user interface. His core principle of business was to tightly integrate hardware and software. He wanted to control user’s experience of their lives. So he liked to take responsibility for the user interface. Thinking about Apple and Amazon, it is natural for us to take integration approach succeed to make great value chain. But let’s consider the integration strategy at the viewpoint of around 2000. At that time, most professors in famous business schools said that outsourcing is strongly needed. But Steve didn’t care about these advices, and he did it completely.

Second one is using Apple’s small market share. The negotiation with  music companies about launching of iTunes store was very tough. But among the negotiations, he considered Apple’s small market share as a test marketing of digital music selling. For music companies, they could try to sell their own music with little risk. If the test didn’t succeed, they only failed 5% of the customers, and it didn’t cause other 95% people who mainly used Windows OS machines. And if the test succeed, the could destroy file-sharing and piracy services including Napster. His negotiation was based on Win-Win strategy.

The last one is about cannibalizing yourself approach. After 2000, he took cannibalizing approach twice at least. First one is when he launched iPhone. iPhone cannibalized iPod sales, because iPhone included the function of iPod. Second cannibalization was iPad, and it would lessen the sales of laptop made by Apple. The reason why he did them is based on the feeling of obsessing about what could mess us up. For example, he showed the board members example of the digital camera market. Digital camera market was messed up by cell phones which were equipped with cameras. 

2012年1月22日日曜日

【第66回】『「経験学習」入門』(松尾睦、ダイヤモンド社、2011年)

 経験から学ぶためにはコルブの経験学習サイクルを回すことが重要であるとこれまで言われてきたが、筆者はそれだけでは足りないと本書で述べる。実践をもとに学びを深めるためには、エリクソンらの「よく考えられた実践」の要素を盛り込むことが必要なのである。経験学習サイクルとよく考えられた実践とを組み合わせている点が、本書の新規性であると考える。


 このサイクルを回すための能力として、ストレッチ、リフレクション、エンジョイメントの三つが必要であると研究の結果として筆者は主張する。


 ストレッチとは「問題意識を持って高い目標や新たな課題に取り組む姿勢」と定義されている。ストレッチングな業務にチャレンジするといっても、個人の思い通りにはならないのが通常である。業務上の目標や役割は上司が、すなわち企業が与えるという要素が強いことは自明であろう。そのため筆者は、ストレッチ経験を提供してもらえる状況をつくれるようにすることが働く個人にとって大事であると述べる。つまり、こいつなら任せても大丈夫であろうと思われるように働くということである。


 そのためにはどうするか。あまり面白くない表現になるが、目の前の仕事に集中し、質の高い結果を出し続けることで他者から信頼される、ということが必要になる。よく「石の上にも三年」といってどんな業務であっても入社後三年間は辞めないことが推奨される。入社直後に周囲から認められることは難しいため、一定の年月をかけて周囲からの信頼を勝ち取ることでストレッチングな業務を任される土台を構築することができるのである。これは個人がストレッチングな業務を取りにいく準備を取るための期間とも言えるであろう。下積みの業務を経験することで仕事の感覚、換言すれば感度を高めるということである。


 ストレッチ経験をするだけでは経験から学ぶことにはならない。そのためには「起こった事象や自身の行為を内省すること、すなわち振り返ること」と定義されるリフレクションが必要不可欠であろう。振り返りであれば業務の後に行っていると思うかもしれない。しかし、筆者は業務を行っている最中のリフレクションをしなければ、業務の後にリフレクションを試みてもあまり意味がないと大変興味深い主張をする。つまり、行為中のリフレクションが行為後のリフレクションの質を規定する、というわけである。業務を回す際にPDCAサイクルをよく想定するが、そこにおけるDoはただ単に業務を行うと捉えられがちである。しかし筆者によれば、業務を行っている最中にも、仕事の意味や背景について常に疑問を持ち、手を動かしながらも考えることが重要なのである。卑近な例で恐縮であるが、私が尊敬するビジネスパーソンは共通してこの点を実践している。幅広い視点で職務を捉え、自身の役職よりも一段階か二段階上の視点で職務の意義を捉えているように思えるため、筆者のこの主張はとても腑に落ちた。


 さらに、リフレクションにおいては他者という要素もまた重要である。筆者が主張するには、効果的なリフレクションにおいてはとりわけ社外の人々との交流が大事であるという。社内の同僚を鏡にしてのリフレクションもたしかに大事であろうが、同僚とは利害関係が強すぎて客観的にリフレクションを試みることが難しいのであろう。それに対して、社外の人であれば、現在所属する企業の現時点での職務に過剰にアジャストしすぎている部分をアンラーニングするきっかけになる。その際には、何もかもをアンラーニングする必要はない。他者からのフィードバックについてオープンマインドで受け容れることは重要であるが、そこから何を取り入れるべきかを取捨選択するという主体的な作用が必要なのである。つまりリフレクションとは、受身的で過去に対する反省というニュアンスよりも、主体的でこれからの自身の業務をより良くするという未来志向的なニュアンスの方が適しているのである。


 ストレッチとリフレクションは大事であるが、それだけでは経験から学ぶサイクルはつらいものになってしまうだろう。そこで筆者が述べる三つめの要素はエンジョイメントである。これは「仕事自体に関心を持ち、やりがいや面白さを感じることで意欲が高まっている状態、および仕事をやりきることで達成感や成長感を感じている状態」と定義されている。ではどうすれば業務の中でやりがいや面白さを感じることができるのか。筆者は関心があるからこそ没頭できることもあれば、没頭することで関心が深まることがある、と述べる。没頭して仕事に取り組む際には、その職務が自分にとってどのような意味を持っているのかについて考えると良いだろう。職務自体には真剣に取り組んでいるのであるから、自己にとってのメリットを考えることはなにも利己的なことではない。


 もし、現時点でのメリットを考えられないとしても、もう少し視点を先に延ばして長期的な意味合いを考えると良いだろう。とりわけ、入社した直後には仕事の意味合いを見つけづらいものであるが、それは仕事を「知らない」からであり、そうしたときの価値判断はあまり正しいものではない。即効的な喜びや楽しさを過度に期待せず、長期的にどういった意義があるかを考え続けることが経験学習においては大事なのである。さらに言えば、そうした長期的な視点で喜びや楽しさを持とうとする方が、精神衛生上も良いと言えるだろう。


 ストレッチ、リフレクション、エンジョイメントを促進するものが、思いとつながりである。他者とつながりを持ち、自身の思いを実現するためにはどうするか。著者は、成長したいという学習目標を持つ人ほど学習意欲、業績、創造性が高い、という研究成果を挙げて、学習目標を持つことの重要性を指摘している。学ぶだけでそれを職務に適用しない場合は単なる頭でっかちになってしまうが、学ばないで職務に取り組むだけではいつまでも成長せずに業務をこなすだけになってしまう。生涯を通じて学び続け、そこで得たものを職務に工夫して応用することが経験から学ぶということであり、なによりも、仕事をたのしむ作法なのではないだろうか。

2012年1月21日土曜日

【第65回】『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(東浩紀、講談社、2011年)

 情報技術の進化が社会を変える、と1990年代後半から言われ続けてきた。実際に、私たちを取り巻く環境は大きく変化し続けている。しかし、それが私たちの意識や政府をどのように変えたのか、そして今後どう変わるのかについての論説はサイエンス・フィクションの域を超えていないものが多い。本書では、情報技術が導く私たちの将来像の一つの仮説を、ルソーやフロイトといった近代思想をもとに、Googleをはじめとした情報技術によって提示している。

 まず、ルソーと言えば社会契約論であろう。文字通り、「社会」と「個人」とが「契約」するという考え方であるが、「社会」を国家に「個人」を国民に読み替えるのはミス・リーディングであると筆者は指摘する。国民国家の一員である「私たち」がそのような誤読をすることはいたしかたないのかもしれないが、ルソーは政府と臣民との関係性で契約を捉えていない。社会契約はあくまで政府や国家といった要素とは関係なく結ばれるものであり、そこから一般意志が導き出され、一般意志を体現する主体としてはじめて統治機構が必要となる。

 ではこのような一般意志という漠然としたものをどのように考えれば良いのか。一般意志を異なる文脈から支えるのがフロイトの無意識である。近代以降、私たちは肯定と否定とを対比させる論理構造で物事を捉えることをあまりに自明視しすぎているのではないか。こうした合理的な思考が通用しない精神病の患者の非合理的な思考を前にして、フロイトは無意識を現出したのである。ここでいう無意識とは、価値中立的で潜在的な人間の意識にすぎず、合理と非合理の対立構造から抜け出ているものである。

 ルソーやフロイトが紡ぎ出した一般意志や無意識といった価値中立的なものは、それじたいに意味を見出すことが難しいために、概念的にはともかく、実際的には事実上無視されてきたと言えよう。しかし、GoogleをはじめとしたIT企業が提供する情報技術というツールによって一般意志が具現化してきたのではないか、という著者の主張は示唆的である。たとえば、Googleのページランクを想起してもらいたい。ページランクはその頁の内容じたいの価値判断はいっさい行わず、そのページがどれほどのページからリンクされているかという参照構造で評価が下される。これは、価値中立性を保って価値判断をするということであり、これが一般意志、すなわち人々の潜在的な無意識をかたちにすると言えるのではないか。すなわち、Googleはルソーやフロイトが思い描いた名状し難い事象を顕在化するツールを提供したのである。

 Googleが標榜する、あらゆる情報を記録しオープン化する総記録社会において、情報技術が国家をまたいでネットワーク構造を持つ、という流れはこれからも続くであろう。では国家はなくなるのかという疑問も出ようが、筆者はそうした意見には与さない。国家には近代以降の熟議、すなわち話し合いという間主観的な価値判断の意義があるというのだ。国家を軽々と乗り越えるGoogle、TwitterやFacebookがいわば「1984年」のビックブラザーのように専横化することに制約を掛けられるのは暴力の集積体としての国家の機能と言えよう。むろん、暴力の集積体としての国家の横暴に対してコントロールを加えるのが情報技術の役割であることは、リビアをはじめとした民主化運動を見ればよく分かるだろう。こうした国家と情報技術との相互監視体制が今後のトレンドであり、アメリカ議会でのSOPA・PIPAの両法案をめぐる問題は、今後の典型的な動きとなるのではないだろうか。

2012年1月15日日曜日

【第64回】『アフォーダンス 新しい認知の理論』(佐々木正人、岩波書店、1994年)

 アフォーダンスとは知覚心理学者であるジェームス・ギブソンが提唱した概念であり、本書では「環境が動物に提供する「価値」のこと」と定義されている。元々は認識論に関する知見として提示された理論であるが、現在ではAI(人工知能)やインダストリアル・デザインの領域でも応用されている。

 アフォーダンス理論の特異性は、それ以前の認識論であり、現代社会においても主流と言えるデカルトの近代的認識論との比較を試みると分かり易い。デカルト流の近代的認識論が主体を自己に置くのに対して、ギブソンのアフォーダンス理論は主体を環境に置く。つまり、情報とは人間の内部に生起するものではなく、人間の周囲にあると考えるのである。したがって、人間が知覚することは情報を直接的に入手する活動であり、脳の中で情報を間接的に創り出すことはない、とする。

 したがって自己と環境との関係性を考えると、近代的認識論とアフォーダンス理論とでは正反対である。近代的認識論は自己が主体で環境を客体と捉えるために、人間社会にとっての手段として環境を捉え、環境を克服可能なものと見做す。こうした認識に基づく施策として、人間社会の予定調和的で単線的な成長を実現するためにともすると環境を酷使することに繋がる。

 これに対して、アフォーダンス理論では環境が主体で自己が客体である。したがってあくまで環境の中にいる人間という関係性である。近代的認識論が環境に対して分析的な思考を用いるのに対して、アフォーダンス理論ではむしろゲシュタルト的な思考を用いる。すなわち、個々の集合体としての環境ではなく、全体として意味をなす環境という考え方である。

 こうしたアフォーダンス理論の知見を用いて産業ロボットや産業製品のデザインが行われているわけであるが、キャリアデザインにも活かせるのではないかと考えている。以下ではキャリアデザインへの応用可能性があると考える点を二点だけ述べる。

 第一に、アフォーダンス理論は変化することで対象が明らかになる、とする。たとえば、ある物体が静止画としてシルエットになっているところを想像してほしい。止まっている状態ではそれが何を表すのか分かりづらいが、それが回転して多面的にシルエットを見ることができれば形を推察できるだろう。変化するものは対象物だけに限らない。ある物体を一つの視点から見ても、それが平面なのか立体なのかすら分からないが、観察者である自分自身が見る視点を変えればその対象を把握することができるだろう。

 以上は認識論上の話であるが、キャリアデザインにも言える話ではなかろうか。すなわち、自分自身の職務を同じ方法で効率的に「こなす」ことだけでは職務を通じてキャリアをデザインすることは難解だ。先の認識論の話でいうところの、一つの視点だけから職務を眺めている状態である。したがって、自ら職務に変化を起こすことが重要である。たとえば、同じ職務の方法を少しずつ工夫して方法を変えたり、顧客とのインタラクションを増やすことで自身の職務を多面的に捉えることができよう。それはすなわち、自身の職務の価値を見出す試みに繋がる。こうした自分起点でのストレッチや、その結果として自身のスキルやマインドのセットの組み替えを行う努力を続けることがキャリアをデザインする、ということではないか。自身のキャリアデザインという視点だけではなく、そうした努力の積み重ねによって顧客への提供価値、自社への提供価値、社会への提供価値も意識することができるだろう。

 第二に、アフォーダンス理論では環境を主体に置くことになるが、環境の中における情報とは無限であり、それは変化し続ける。したがって、環境に内在する情報を入手するための私たちのセンサーも変化し続けることが必要となる。すなわち、知識や情報を蓄えることが大事なのではなく、外界の多様な知識や情報をセンスできるように身体のありようを複雑かつ洗練されたものに組み替え続けることが重要だ。

 その一つの作法として私が参考にしたいと思うのはインダストリアル・デザイナーの深澤直人さんの考え方である。詳しくは深澤さんの『デザインの輪郭』をお読みいただきたいが、彼は、ゴールからリバース・エンジニアリングして〇〇を学ぶ、という発想を取らないと述べている。筋肉を鍛えるという比喩を用いているが、「何をするためにその筋肉を鍛えるかじゃなくて、単に「鍛えている」ということ」を重視するという。鍛えている過程では失敗や苦難などアクシデントが起こるが、「ただ、スッとして、そのアクシデントを許容するということの美学」を掲げている。続けて、そのようにすれば「どんなゴールにでも行ける」としている。

 日本の大学入試や資格試験といった範囲が固定された試験においては、正解からリバース・エンジニアリングして勉強することがゴールへの近道となるであろう。しかし、そうして規格生産された学歴エリートが必ずしも良きビジネスパーソンにならないことが、深澤さんおよびアフォーダンス理論のアプローチを引き立たせる。近代的認識論が間違っているとは思わないが、それはあくまで一つの現実の捉え方にすぎず、一つの最適な解決策にすぎない。アフォーダンス理論の知見を用いて、キャリアもしくはライフキャリアのデザインを試みることの重要性は増してきているのかもしれない。

【第63回】『法哲学』(平野仁彦・亀本洋・服部高宏、有斐閣、2002年)

 なぜ法哲学という学問領域が存在するのであろうか。それはこの文言の字義から自ずと分かるだろう。つまり、法学と哲学とは密接不可分のものであり、どちらかが欠けても、大げさに言えば社会は充分に機能しないのである。

 試みに法哲学的な思考がない人物が法を運用したらどうなるか、という仮想実験をしてみれば法哲学の存在意義が分かるのではないか。そうした者が法を運用しようとすると形式主義に陥るであろう。つまり、法律や判例に書かれてある文言のみを読み込み現実に適用しようとする。一方では文言に抵触しそうな場合のものには総じて保守的に対応するため、個人が取り得る行動範囲が狭くなる。もしこうした者が人事、総務、労務の部署にいれば、社員の創意工夫や積極的な対応に対していつも歯止めをかけることになり、企業の活力に悪い影響を与えるだろう。また他方では、現実に起きている問題を構成要件化することができず、現実問題を法の文言に結びつけることができずに有効な施策を打ち出せないだろう。現実に起こった問題を抽象度を高めて把握し、法的三段論法に落とした上で具体的な対策を講じるためには法哲学が必要なのである。

 哲学という名がつく以上、自由主義理論と共同体論の対立構造がこの分野でも展開されているのが、当たり前なのかもしれないが、興味深い。誤解を恐れずに具体的に記せば、ロールズとサンデルの対立構造が展開されていると言い換えた方が分かり易いかもしれない。昨今の日本でのサンデルの人気を考えれば、コミュニタリアニズムに代表される共同体論が多くの<日本人>にとって親和性が高いと言えるだろう。コミュニティとのつながりを求める「C世代」という言葉がよくメディアで見られるようになった背景にも、コミュニタリアニズムへの親和性の萌芽が見られる。たしかに、サンデルがロールズの自由主義理論における人格概念を「負荷なき自己」と切り捨てる論法は明快であり、納得感が高いように個人的には思える。いずれにしろ、<日本人>の多くはC世代に代表されるように「負荷ありし自己」を希求しているようだ。したがって、法的規範に目的志向を持たせようとする共同体論が中長期的に主流になるというトレンドを予想することが可能であろう。

 ただし、そうなった場合に起こる難題についても私たちは考える必要があるだろう。つまり、現代の私たちを取り巻く環境は、人種や国籍や性別といった属性が多様な「負荷ありし自己」の集まりである。そうした多種多様な人々を、目的指向性の高い法的規範に収斂しようとする共同体論の態度は果たして整合的なのであろうか。本書においても、共同体論への批判の一つとして、共同体論が古代ギリシアの思想を理想に置いていることが挙げられている。古代ギリシアにおける政治が民主的であったとはいえ、奴隷制が認められるなど、限られた「市民」にとって民主的であったに過ぎない。つまり、画一性の高い限定された「市民」にとっての理想的な思想を、多様性の高い有象無象の人々が暮らす現代社会へ応用するのには無理があるのではないか、と自由主義理論の側は反論する。

 このように対立していてどちらが「正解」かが分からないというのを気持ち悪く思う人もいるだろうが、現実とは白黒はっきりしないものであり、法哲学をもってしても然りである。私たちは、コミュニティを求めつつも、現実的にダイバーシティへどのように対応するか、というアポリアに答えを出していく必要がある。こうした状況を悲観する必要はなにもない。本書でも議論の重要性が挙げられているように、自由主義理論と共同体論とを、法的思考を用いた議論を重ねて答えを導き出していけば良いのである。自身の中で思考実験を繰り返すのでも良いし、コミュニティの中で実際に議論するのでも良いし、異なる立ち位置の人との交流の中で議論するのも良いであろう。


2012年1月7日土曜日

【第62回】『フェルメール 静けさの謎を解く』(藤田令伊、集英社、2011年)

 フェルメールはよく「静謐の画家」と形容されるように、静けさを描写した絵画のイメージが強い。フェルメールが静けさをどのように実現しているのか。その理由を明らかにするべく探求しているのが本書である。

 著者は結論として、色彩、素材と構図、意味性の剥奪、光の描写、という四つの要素が静けさを構成しているという。

 第一に色彩について。「フェルメールブルー」と言われるように、フェルメールと言えば青である。青が静けさを表現していることは科学的にも傍証されているそうだ。日本の研究者が、「真珠の耳飾りの少女」で描かれている少女の青いターバンの色をコンピュータで青、黄、赤、緑、黒、白の六色に変換して被験者の印象がどう変わるかを測定したらしい。その結果、青のものが静かで落ち着いた印象を持ったといい、これは色彩心理学の知見とも整合するものであるとのことだ。

 青を主題として描く絵画は他にも多くある。そうした中でフェルメールを際立たせるものが、第二の要素である素材と構図にある。まず、フェルメールの描く素材自体は極めて少ない。フェルメールの作品の中には、ある対象を描いたと思われる部分が上塗りされて素材を消した形跡がよくあるという。意図的に対象を減らすことでいわば絵画を無言化して静謐さを表現するということである。さらに、絞り込んだ対象を絵の一部にしか配置しないことで、描写される範囲をごく狭くする構図を用いることで静けさを増している。

 第三に意味性の剥奪が挙げられる。当時の絵画の一つの流行は教訓的風俗画であった。教訓的風俗画とは人としてどうあるべきかを描写する絵画であり、悪徳揶揄型と美徳奨励型という二つのスタイルがある。当時の鑑賞者は前者、すなわち悪徳揶揄型を好んだためにそちらの絵画の方が多い。よく私たちが目にするものとしては、家の外側に品のないものを内側に上品なものを想起するものを描くものや、男女とワインとを描くことで悪徳を想起させるものである。フェルメールはこうした流行を追わず、美徳奨励型を好んで描いたため、表情を読み取りづらい女性のみを描き、余分な他の存在を配置していない。したがって、意味やメッセージ性が希薄になることで、静けさが助長されているのである。

 最後に光の描写がある。フェルメールと言えばポワンティエである。ポワンティエとは、光が当たって輝いて見える部分を白い点描で表現する技法である。光の描写については、フェルメールの作品の中でも変化が見えると言われるが、強くて明瞭な光から淡くておぼろな光を経過してポワンティエの活用に至り、さらにポワンティエ自体を抑制することで静謐感を高めている。

 こうした四つの要素はそれぞれが別個に機能しているというよりは、渾然一体として相互に影響を与え合っていると言えるだろう。構造的に把握することは私の好みであり興味深く読めたのであるが、やはり実物を鑑賞するにかぎる。出版間もない本書を読んで無性にフェルメール展に行きたくなったところに、Bunkamuraの「フェルメールからのラブレター展」が用意されているのは、作者の狙いと考えるのは邪推であろうか。

2012年1月3日火曜日

【第61回】『だから、僕らはこの働き方を選んだ』(馬場正尊・林厚見・吉里裕也、ダイヤモンド社、2011年)

 フリーランスはもっとサラリーマンの働き方や心構えを意識するべきであると思うし、サラリーマンはもっとフリーランスの働き方や心構えを意識するべきではないか。両者を経験して私はそう思ってきたが、この両者のうまみを統合しようとしているのが、本書の著者たちが働く東京R不動産である。

 東京R不動産の社員の働き方はフリーエージェント・スタイルと呼ばれるものだそうだ。フリーランスとサラリーマンのいいとこどりを実現する働き方、ということである。フリーランスは自律して働き易いが、ともすると短期的なプロジェクト単位で集まって働くことになりがちである。他方、サラリーマンは職務にも同僚にも中長期的な関係性を持ち易いが、働く上での自由裁量の度合いは小さい。こうした両者の良さを合わせることでプロスポーツ選手のような働き方を実現するのがフリーエージェント・スタイルである。つまり、個人が自律的に働いて自己実現を目指しつつ、チームすなわち企業が勝利することを同時に求めるということである。

 こうしたフリーエージェント・スタイルという新たな働き方が、組織とそこで働く個人の有り様を普通の企業のそれと異なるものにしている。

 第一に教育について。東京R不動産ではプログラム化された教育コンテンツやシステムは存在しない。もちろん、同僚からの様々な助言をもらうことはいくらでもできるようになっているが、それぞれからもらうものは多様である。それぞれの人がなかば矛盾するアドバイスを受けることもあるだろう。しかし、同社で働く社員には、同僚間で異なるコメントを消化して、さらに新たな回答を導き出すことが求められるのである。

 第二に会議について。サラリーマンにとって会議とはあまり好まれるものではない。そうであるからこそ、会議に関するビジネス書が流行っているのであろう。フリーエージェント・スタイルにおける会議はこうした無用の長物としての会議とは異なる。個人事業主の集まりであるのだから、無駄な会議は社員の収入を阻害するものとなってしまう。したがって、会を重ねるごとに欠席者が多くなってしまうものについてはやめるそうだ。継続しない理由や会議のあり方をいかに受け容れるかを考えるという東京R不動産の会議の考え方は、普通の企業でも参考になる考え方であろう。

 第三に兼業について。普通の企業では、就業規則で兼業を禁じる何らかの規定があることが通常である。東京R不動産では兼業を禁じないばかりか、むしろ奨励をしている部分があると言う。それはなぜか。兼業することで、同社で働く個々人が多様な人脈を構築し、また専門性を拡げていくことによって成長をする。そうした社員の多様な成長や人脈が、翻って同社のビジネスの進展に繋がる、という考え方である。

 こうした新しい働き方を支えるマインドセットとして、好きという感覚を柔軟に捉える意識が重要であると著者は述べる。その背景にあることは、一生安心できる職務やポジションは存在しない、という現実が挙げられる。そうであるからこそ、自身が世の中に価値を生み出せる人間であることを信じることが個人の精神的な安心につながる。こうしたことを信じるためには、自分自身が常に成長し続け、そのために自己動機付けを行えることも必要であろう。

 とても可能性を感じる新しい働き方であると私も思う。とはいえ、不動産販売の営業職という業種および職種がこうした働き方を実現し易いものであるという側面もあろう。フリーエージェント・スタイルを一つの有効なケースとして、どのような働き方が自社に適しているのかを考え模索していくことが大事なのではないだろうか。

2012年1月1日日曜日

【第60回】『仕事漂流 就職氷河期世代の「働き方」』(稲泉連、プレジデント社、2010年)

 就職氷河期とは1993年から2005年に大学を卒業しいわゆる「新卒入社」した世代を指すと言われている。本書は、そうした就職氷河期世代に対して、著者が丹念にインタビューを行い、彼(女)らの働き方に対する意識を明らかにしたものである。インタビューを行った著者自身も1979年生まれであり就職氷河期世代に該当する。また、読者である私も1981年に生まれ2003年に「新卒入社」したため、全般的に共感をおぼえながら読み進めた。

 まず共感した点は、すべてのインタビュイーが日本経済に対して抱いている強い不信感である。この不信感は同じく日本経済が停滞している中で育ってきたポスト就職氷河期世代も共有するものであろう。しかし、ポスト就職氷河期世代が安定した大企業への入社を希望する傾向があり、これは不安感に基づく安定志向ということであろう。それに対して、就職氷河期世代は成長への切迫観念に基づいて行動する。第4章のインタビュイーが述べているように、右肩下がりの経済状況の中では、現状維持ということは日本経済という下りエスカレーターに乗って一緒にダメになることを意味する。だから成長欲求が強い。大企業を目指す人もいるが、そこに一生勤めたいというよりも、優秀な同僚や潤沢な資金のある環境で、そこでしか得られない経験を積むためという意識が強いように思える。

 その結果、目的的に業務を捉えることが多い。成り行き任せでキャリアを積むということは考えず、その業務は自分にとって他者にとって社会にとってどういった目的があるのかについて考える。さらに、これは自分に対してそう考えるだけではなく、他者もそうすべきであろうと考えてしまう。したがって、第6章のインタビュイーが述べているように、目的的に行動しない上司や先輩を無条件に尊敬するということができづらい。目的的に行動すれば成長するという発想を取るために、同じような職務を担う年長のあまり「仕事ができない先輩」に対して厳しい視線を投げ掛ける傾向があるように思える。

 現実に対してシビアに生きるということは、覚悟を決めることにも繋がる。目の前の顧客(むろん社内顧客も含む)に対して最善を尽くすことに妥協をせず、それを通じて社会への貢献ということをこの世代は意識する。よく言えばプロフェッショナル志向が強いのである。したがって、そうした他の主体への貢献を無視するような企業の暴威に対しては決然とした行動を取ることを辞さない。第1章のインタビュイーが述べているように、会社を辞めるという意識を持つことによって目の前の仕事に対して全力で打ち込むという論理構造はとてもよく分かる。

 就職氷河期という就職活動で苦難を味わうことによって得られたものがあることもこの世代の特徴である。手に入れづらいものをなんとか手に入れようと努力することで、自己イメージが深化したという第4章のインタビュイーの感覚はよく分かる。成功した自分というビジョンからカスケーディングして自己イメージを描くというアプローチを就職氷河期世代は取らない。そうではなく、苦闘しながら仮説を検証していく過程で自己イメージを紡ぎ出す、という発想が近いのではないだろうか。

 また、こうした仮説検証はあるゴールをクリアすれば終わるという類いのものではなく、永遠に続くものであるという腹の括りもあるように見える。とりわけ第6章のインタビュイーのように、転職前に思い悩んだことが活きた結果として現在のキャリアに心理的な整合性を取れるという発想は興味深い。そうであるからこそ、将来より広い視野で働けるように、なにが活きるかは分からない中でも現時点で努力をし続けることに意義を見出すのだろう。こうした自身の経験を相対化する行為は、就職氷河期世代特有の特徴と言えるかもしれない。

 本書は就職氷河期世代のありようを示した良書であるが、本書をもとにしてこの世代に対して過度な一般化を試みることは意味がないであろう。なぜなら、就職氷河期世代は唯一の正解からリバース・エンジニアリングして現在の行動を導き出すという発想を持たず、価値観やキャリアの多様性を是とするのであるから。