2012年12月15日土曜日

【第128回】『インテグラル・シンキング』(鈴木規夫、コスモス・ライブラリー、2011年)


 インテグラル理論とはケン=ウィルバーが提唱する理論であり、複雑であり射程範囲が包括的であるために一筋縄では理解することが難しい。本書はその解説を試みる書籍であり、この理論を端的に「相互に関連性のないものとしてバラバラに存在している多種多様な情報を有機的につなぎ合わせるための枠組み」と定義している。

 包括的に世の中を理解する枠組みであるということは、「あまりにもあたりまえのことを意識的にかつ効果的にできるようにするための道具」ということである。すなわち、自然のこととして認識しているものを浮かび上がらせ、思考の枠組みの多様性を理解した上で枠組みを主体的に選択することができるようになることが最大のメリットであろう。

 インテグラル理論によれば、世の中の把握のしかたとして二つの軸の組み合わせにより四つの領域があるという。横軸は内面と外面による区別であり、縦軸は個と集合に基づく分類である。

 左上の領域である個の内面とは、問題や課題に取り組んでいる関係者一人一人の主観領域である。この領域を直接的に経験しているのは自分一人だけであり、他者からは観察することができない。したがって、自分自身の思考・感情・感覚・直感を重要な情報として明らかにしていくことが個人にとって有用となろう。

 ただし、個の内面の領域が過剰になると、第一に精神主義に陥るリスクがあり、その結果として崇高な価値観に基づくものであれば結果に対して無責任になる懸念がある。第二に、理想を高く持ちすぎてしまうことで現実のありのままの自分を許容できない潔癖主義に陥り、自分で自分を苦しめる懸念があることには留意したい。

 次に、左下領域として挙げられている集団の内面は、関係者が共有している空気や風土や文化の領域を指す。異なる価値観を持つ一人ひとりに共通した方向性をもたらすものであり、いわば関係者を共同体として結びつけるものである。

 しかし、それは呪縛するものでもあることに注意を向ける必要があるだろう。 山本七平さんの分析を俟つまでもなく、太平洋戦争期の日本における「空気の支配」は最悪なかたちでのその顕在化である。また、ポストモダン思想を誤読してしまい真実など何も世界には存在しないという虚無主義に至りかねない価値相対主義の危険性にも目を向けるべきであろう。

 右上領域である個の外面とは、関係者一人ひとりの客観的な領域のことを指す。自身の具体的な行動を分析するといった客観的な視点を通して、自己を観察することができる領域である。

 この領域が過剰になる場合のリスクとしてもやはり二つ挙げられている。一つめの能力主義・成果主義については、著者の見解は「結果主義」批判にほかならずプロセスを評価する本来的な成果主義に対する理解が浅いきらいがある。したがって、多くの日本企業における人事制度への反論というように射程を絞って理解する必要があることには注意をされたい。また、効率的な鍛錬ばかりにいそしみ、人間の思考や感情を成功・幸福を実現するための道具や資源としてのみ捉えてしまうという過剰な上昇志向という懸念も大きい。

 最後に、集合の外面という右下の領域は、共同体を客観的に観察できるものである。企業で言えばヒト・モノ・カネといったリソースの分析が該当し、私たちが五感で把握できる領域である。

 この領域に傾注しすぎるリスクとしては、集団の移行に過剰に合わせようとしてしまい自身の創意工夫が為されない適応主義が挙げられる。また、新しいインフラや制度がそれを使う人間自体の感情や価値観や思考を縛るという人間疎外を伴う制度改革の絶対化も懸念される。

 では、こうした四つの領域をどのように統合的にバランスさせることができるのか。著者によれば、次の四つの段階があるという。

 第一段階としては一つの視座を強化することである。ここでは、型を地道に実践し続けることで微妙な変化を蓄積させ、その結果として長期的な変化を生み出すことが課題となる。第一段階で一つの視座を強化した後の第二段階としては、複数の視座を使えるようになることが目標となる。ここでは、一人だけではなく複数の師を持ち、ときに相反する助言をどのように自身の中で昇華させて一歩を踏み出すかが鍵となるだろう。

 第二段階を通じて得られた複数の視座を自分自身のものと体内化するために、第三段階では実践が求められる。実践を行い仮説検証を回し続けることで、それぞれの視座を利用できる文脈を多様にすることがここでは求められる。最後の第四段階では、自身のものとして使えるようになった「引き出し」を自由自在に活用できるようにするために高次の文脈を創造することが目標となる。その際に、統合的なバランスを取れている理想型としては、四つの領域の真ん中に位置するという状態ではないことに注意したい。そうではなく、極端な状態を必要に応じて選択的に行き来してそれぞれの真実を十全に体験することができる状態を目指すべきであろう。

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