2012年10月8日月曜日

【第115回】『竹田教授の哲学講義21講』(竹田青嗣、みやび出版、2011年)


 オルフェーヴルが凱旋門賞で負けた。フォワ賞あたりから期待が高まり、また直線半ばで先頭に立った状況から、「スミヨンの仕掛けが早すぎた」という批判がネット上では為されている。しかし、オルフェーヴルに跨がるスミヨンと、感想を述べる私たちとの間にある二つの軸の差異にあまりに無自覚ではなかろうか。

 一つめは空間軸である。テレビ画面を通じて全体を見渡せる私たちに対して、最後方付近で待機しているスミヨンからは動きながらラフスケッチとして把握できるに過ぎない。加えて、二つ目の軸である時間軸の相違が大きい。私たちは結果的にソレミアに差し返されたという時点からレースの状況を振り返るために、レース後からレース中を省みることになる。それに対して、スミヨンはレース前のオルフェーヴルや馬場の状況および調教師とのミーティングからレースに臨むために時間軸の矢印が私たちと真逆である。したがって、私たちはソレミアを重点的に考えられるが、オルフェーヴル陣営からすれば人気薄のソレミアはほぼノーマークで、キャメロットをはじめとしたアイルランドやフランスの馬を仮想敵と置いていただろう。過去からレースを捉えた場合、スミヨンの仕掛けが早かったということは果たしてできるものだろうか。

 私たちは自分の視座に立って物事を見る。それは致し方がない。しかし、自分の視座に立っていることに無自覚で、他者を批判することは無益である。そうではなく、他者の視点に立とうとする努力をし、他者のパフォーマンスを他者の目線で振り返ろうとする営為が、翻って私たちの視座を豊かにすることに繋がるのではないだろうか。

 これはなにもスポーツを鑑賞する場合にのみ当てはまるものではない。本書のテーマである歴史的な哲学者に向ける現代を生きる私たちの眼差しもまた、スミヨンの騎乗への批判者に該当しがちであるから注意が必要だ。

 著者は自分たちの世界像の視点からのみ哲学者の理論を捉える姿勢を一貫して批判する。そうした姿勢では、古今東西の哲学者が「生きるとはなにか」を考え詰めて紡ぎ出した結晶の価値を削ぎ落す結果となってしまうからである。時代背景や環境を踏まえた上で、哲学者たちの思想を読み解くことが、私たちの視野を拡げるきっかけになる。

 たとえば本書で最初に取り挙げられているプラトンの理論を見てみよう。プラトンと言えばイデア、イデアといえばキリスト教的唯一神、キリスト教的世界解釈と言えば本質実在論、と結びつけられ、現代ではプラトンの理論は否定的に捉えられがちである。しかし、これはプラトンが生きたギリシャの世界像を括弧に括り、現在の世界像から批判しているにすぎないのかもしれない。むしろ、現代の世界像を括弧に括り、プラトンの理論を捉えようとする努力こそが私たちには求められるのである。

 では現代の世界像を括弧に括ってプラトンを読み解こうとするとどうなるか。

 プラトンがイデア論へと至った背景には、自然哲学派が提示していた万物の原理を水や火といった物質に置く理論や、ピタゴラスの提示した原理を数に置く理論といった客観的な対象を基盤とする認識からの脱却という姿勢を見逃すわけにはいかない。つまりプラトンは、従来の客観的な対象物をもとに事物を解釈するパラダイムを脱却し、人間の有する内在的な価値によって物事を把握するというパラダイムを提示したのである。

 ここで真善美のイデアという概念に繋がる。イデアを説明する思考装置としてプラトンが用意したのがかの有名な洞窟の比喩である。私たちの前方に見える影だけを見ていては投影される元となる事物を把握することはできない。前方ばかり見るのをやめて後方を振り返ること。すなわち、自分が見ているものが太陽の光源によって照らされている仮象に過ぎないという事実を自覚すること。この自覚によって、自分自身の主観的な信念に気づき、真のイデアを目指すメタレベルでの認識、すなわち善なるイデアによる把握が可能となる、とするのである。

 その際に私たちが忘れてはならない点は、プラトンは、イデアという最終ゴールに焦点を置くのではなく、イデアに至るプロセスに対して焦点を当てていることである。善なるイデアは人間の主観に影響を受けざるを得ない。人間の感受性は美的感覚の網の目のようなものであるため、完全なもの(真のイデア)を想起することはできない。しかし他方で、その網の目を少しずつ編み変えていき、より深い美意識を持つという発展可能性は常にあるとも言える。こうした人間の審美性を深めていく原理をプラトンは善なるイデアと名付けたのではないか、というのが著者の主張であり、このように捉えれば私たちが現代で生きる糧ともなるように思える。

 時間軸と空間軸の差異を無視して今・ここの視点から他者を批判することは容易い。しかし、そこからなにが生まれるのであろうか。今・ここの視点を括弧に括り、過去の・その場所での考え方に寄り添おうとする営為こそが、歴史上の人物の知恵から学ぶということなのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿