2012年9月29日土曜日

【第112回】『「しがらみ」を科学する』(山岸俊男、筑摩書房、2011年)


 「頭でっかち」という言葉はあまり良くない意味合いとして使われる。なんに対しても理論や論理性のみで事象を理解しようとして、現実にそぐわない結論を導き出すというようなことであろう。

 そうであるからといって、「頭」と対比的に用いられる「心」を重視することは望ましいのだろうか。

 著者は「頭でっかち」に対して「心でっかち」という言葉を用いて、その危険性を指摘している。つまり、どのような事象に対しても心的な背景があると解釈しすぎてしまうことによるリスクである。

 心という狭い概念でものごとを理解しようとしすぎると、結果的に視野が狭くなってしまい全体が見えなくなる。また、全てにおいてポジティヴ・シンキングを強調しすぎると、心の持ち方さえ変えればあらゆる問題が解決するという精神主義が助長される。この結果として、竹槍で戦車に立ち向かうなどとする発想が生まれ得ると著者はその危険性を指摘している。

 「心でっかち」が恐ろしいのは、「心」を水戸黄門の印籠のように出されると、反論しづらくなるということである。すなわち、思考が停止される状態である。たとえば、若者による凶悪犯罪をマスメディアが取り上げ、その中で凶悪な犯罪が増えていることを若者の精神状態の荒廃と結びつけられることがよくある。しかし、社会学では使い古されている事例であるが、戦前からの統計で表すと犯罪数はかつてより激減している。

 「心でっかち」になって何に対しても心的な現象を要因として持ち出すことで私たちは問題の本質を考えることを放棄していないか。この問いを己に問いかけることが、「心でっかち」から抜け打すヒントの一つになると考える。自戒を込めて。

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