2012年8月19日日曜日

【第100回】『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎、筑摩書房、2006年)


 日本人の多くにとって唯一神教を理解することは難しい。日本は多神教の社会であるとされているからである。しかし、グローバルな視点から見れば、唯一神教の文化圏の国家が多数であることは事実である。旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった唯一神教が生まれ、そうした宗教を信じる方々と接することは増える一方である。私たちにとって、唯一神教を誤解せずに、その成り立ちや考え方を理解することは必要な態度であろうと思う。

 では、唯一神教とはなにか。本書で最初に扱っているのは上述した唯一神教の中で最も起源が古いユダヤ教である。ユダヤ教においては、神こそが世界の本当の支配者である。その結果として、神の声を聞くことができる預言者の持つ影響力ははかりしれない。そうすると、ある時代の権力者であっても預言者の存在を無視することはできず、ときに預言者が王の悪政を批判することも通常であったという。これは、預言者が体現する宗教的知識と、王が体現する世俗的権力とが分離して緊張関係を築くというダイナミズムが現れている。こうしたダイナミズムが、宗教と政治を分離するという近代合理主義精神を内包していると言えるだろう。

 こうした唯一神教の精神はキリスト教でも同様である。キリスト教という共通のバックボーンがあるからこそ、近代以降において民族ごとの国民国家が成立することになった。すなわち、神は絶対であるが、地上における国民国家は相対的な権力であり、国民による国民国家へのコントロール機能が働き、場合によっては市民が権力を奪い取ることになる。それが市民革命をはじめとした近代合理主義精神のダイナミズムである。

 さらにキリスト教においては、その創始者であるイエスが教義を完成させる前に磔刑にあった。そのため、キリスト教を信じる人々がイエスの死後数世紀にわたってその教義を練り上げたという。そうしたフォーラムの場が公会議である。創始者が教義を完成させなかった以上、公会議の解釈が正当な権威を持つことになり、こうした議論や対話を重ねて真実を創り上げるというプロセスが文化として根付いたと言えるのではないだろうか。

 こうした唯一神教に対して多神教の国として多くの日本人に認識されているのが日本である。唯一神教と多神教とのどちらが優れているということを議論するつもりは毛頭ないが、多神教の持つリスクについては指摘をする必要があるだろう。著者が述べているように、明治政府は宗教の自由を認めつつ、「神道は宗教にあらず」という公式見解を打ち出し、神道、すなわち天皇を中心とする中央政府に国民を従わせようとした。そうした戦前の日本の国家神道が太平洋戦争へと至った。これは青山学院大学教授の西谷幸介教授が『宗教間対話と原理主義の克服』の中で指摘しているように、多神教が単一神教へと変わる傾向とそのデメリットを端的に表している史実と言えるだろう。すなわち、多神教というと聞こえはいいが、多神教という状況においては、多くの神の間の序列を権力主体が操作することで、他の国や宗教に対して寛容でない単一神教に堕してしまいがちなのである。唯一神教圏でない私たちにとって、こうしたリスクについては自分たちの歴史から学んでおく必要があるだろう。

 こうした多神教の内包するリスクに対する認識とともに、著者があとがきで記しているように宗教を私たち日本人は誤解しがちである、という指摘も忘れてはならない。単一神教の暴走を自分たちの国の歴史として経験しているがために、宗教全般に対して否定的な感情を持ちがちである。自分たちへの戒めとして認識することは大事であるが、他方で宗教に帰依する方々を否定することは誤りである。とりわけ、極めて稀な原理主義者の危険性ばかりに目を向けて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるごく普通の人々をも偏見の目で見ることは避けるべきであろう。そのためにも、日本人こそ宗教を学ぶべきなのかもしれない。

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