2012年1月15日日曜日

【第63回】『法哲学』(平野仁彦・亀本洋・服部高宏、有斐閣、2002年)

 なぜ法哲学という学問領域が存在するのであろうか。それはこの文言の字義から自ずと分かるだろう。つまり、法学と哲学とは密接不可分のものであり、どちらかが欠けても、大げさに言えば社会は充分に機能しないのである。

 試みに法哲学的な思考がない人物が法を運用したらどうなるか、という仮想実験をしてみれば法哲学の存在意義が分かるのではないか。そうした者が法を運用しようとすると形式主義に陥るであろう。つまり、法律や判例に書かれてある文言のみを読み込み現実に適用しようとする。一方では文言に抵触しそうな場合のものには総じて保守的に対応するため、個人が取り得る行動範囲が狭くなる。もしこうした者が人事、総務、労務の部署にいれば、社員の創意工夫や積極的な対応に対していつも歯止めをかけることになり、企業の活力に悪い影響を与えるだろう。また他方では、現実に起きている問題を構成要件化することができず、現実問題を法の文言に結びつけることができずに有効な施策を打ち出せないだろう。現実に起こった問題を抽象度を高めて把握し、法的三段論法に落とした上で具体的な対策を講じるためには法哲学が必要なのである。

 哲学という名がつく以上、自由主義理論と共同体論の対立構造がこの分野でも展開されているのが、当たり前なのかもしれないが、興味深い。誤解を恐れずに具体的に記せば、ロールズとサンデルの対立構造が展開されていると言い換えた方が分かり易いかもしれない。昨今の日本でのサンデルの人気を考えれば、コミュニタリアニズムに代表される共同体論が多くの<日本人>にとって親和性が高いと言えるだろう。コミュニティとのつながりを求める「C世代」という言葉がよくメディアで見られるようになった背景にも、コミュニタリアニズムへの親和性の萌芽が見られる。たしかに、サンデルがロールズの自由主義理論における人格概念を「負荷なき自己」と切り捨てる論法は明快であり、納得感が高いように個人的には思える。いずれにしろ、<日本人>の多くはC世代に代表されるように「負荷ありし自己」を希求しているようだ。したがって、法的規範に目的志向を持たせようとする共同体論が中長期的に主流になるというトレンドを予想することが可能であろう。

 ただし、そうなった場合に起こる難題についても私たちは考える必要があるだろう。つまり、現代の私たちを取り巻く環境は、人種や国籍や性別といった属性が多様な「負荷ありし自己」の集まりである。そうした多種多様な人々を、目的指向性の高い法的規範に収斂しようとする共同体論の態度は果たして整合的なのであろうか。本書においても、共同体論への批判の一つとして、共同体論が古代ギリシアの思想を理想に置いていることが挙げられている。古代ギリシアにおける政治が民主的であったとはいえ、奴隷制が認められるなど、限られた「市民」にとって民主的であったに過ぎない。つまり、画一性の高い限定された「市民」にとっての理想的な思想を、多様性の高い有象無象の人々が暮らす現代社会へ応用するのには無理があるのではないか、と自由主義理論の側は反論する。

 このように対立していてどちらが「正解」かが分からないというのを気持ち悪く思う人もいるだろうが、現実とは白黒はっきりしないものであり、法哲学をもってしても然りである。私たちは、コミュニティを求めつつも、現実的にダイバーシティへどのように対応するか、というアポリアに答えを出していく必要がある。こうした状況を悲観する必要はなにもない。本書でも議論の重要性が挙げられているように、自由主義理論と共同体論とを、法的思考を用いた議論を重ねて答えを導き出していけば良いのである。自身の中で思考実験を繰り返すのでも良いし、コミュニティの中で実際に議論するのでも良いし、異なる立ち位置の人との交流の中で議論するのも良いであろう。


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