2011年11月5日土曜日

【第51回】『日本はなぜ敗れるのかー敗因21カ条』(山本七平、角川書店、2004年)

 まず興味を抱いたのは著者と少し後の世代にあたる人々との戦争に対する感覚の違いである。ある日本の取材者がベトナム戦争から帰還した米国兵へ行ったインタビュー記事に対する著者の批判がその典型的なものであろう。やや長くなるが引用する。

 「一体この取材者は、どういう前提で兵士に質問を発しているのであろう。「殺しの手応え」などというものが戦場にあるはずはないではないか。ない、ないから戦争が恐ろしいのだ、なぜ、そんなことがわからないのか。これはおそらく、戦争中から積み重ねられた虚報の山が、全く実態とは違う「虚構の戦場」を構成し、それが抜き難い先入感となっているからであろう。」

 筆者が批判している「この取材者」とは若き日の田原総一朗さんである。2011年の現在から考えると、戦争を体験している世代と把握される田原さんの戦争観に対して、著者は強い違和感をおぼえるのである。 現代の日本に生きる戦後世代の私からすると、戦前や戦中に生きた人々が同じ経験をし、同じような戦争観を持っているように錯覚してしまうが、そのようなことは決してない。詳しくは小熊英二さんの『<民主>と<愛国>』をお読みいただきたいが、戦地に行かずに学校で教科書を黒塗りした世代、二十歳前後で従軍を経験した世代、戦場でマネジメントの立場に立った世代、これらの世代間で戦争を取り巻く言説構造は大きく異なる。いま声の大きい田原さんや石原慎太郎さんといった教科書を黒塗りした世代が仰ることが、日本の戦争のすべてとは程遠いことは私たちは強く認識しなければならないだろう。これが歴史に学ぶということである。

 では、私たちは歴史に学ぶことができているのだろうか。この問いに対する著者の回答は手厳しく、身につまされる部分が多いと言わざるを得ないだろう。

 日本人は術や芸を「極める」ことに固執しすぎると著者は指摘する。「良い」大学に受かるために受験勉強を極めようとし、「良い」企業に入社するために就職活動を極めようとし、「良い」給与を得るために語学をはじめとした資格試験勉強を極めようとする。なにもそれぞれが悪い行為だとは思わない。しかし、「良い」大学を卒業し、「良い」企業で働き、「良い」資格を持つ人で、仕事ができない人は、私の知り得る限りでも少なくない。

 こうした「極める」ことを重視し、現実適用性を考えられないといういわば日本的な病理は、今に始まったことではない。太平洋戦争で用いられた三八式歩兵銃はたしかに優れた性能を有していた。しかし、それはソ連を仮想敵として陸軍が用意したもの、つまりは広い荒野で戦う際には有用であっても、ジャングルでゲリラを相手にアジアの島々で戦うには不向きであった。想定した前提が異なれば、どれほど性能が優れても意味はない。これは野中郁次郎さんらの『失敗の本質』でも述べられていることと同じである。

 著者はさらに歴史をさかのぼってこの日本的病理を説明してみせる。日本人は今も昔も宮本武蔵を好む人が多い。私も実際、好きである。吉岡一門との戦いで見せた武蔵の百人斬りはあまりに有名であり、また心躍らされるシーンである。しかし、冷めた見方をすれば、剣術を極めて百人斬りができる条件は、相手も剣術で対応する場合に限られる。鉄砲はおろか、弓矢での攻撃があれば、百人斬りなどできるはずがないのは自明であろう。こうして俯瞰した考えに対して私たちはときに「卑怯」と感じる。この卑怯を感じる私たちの心象が、著者の言う日本的病理を端的に表しているのである。百人斬りを行った宮本武蔵が、もはや白刃戦が時代遅れになりつつあった大阪の陣で活躍できなかった史実を、私たちは心に留める必要がある。

 著者は典型的な受験勉強において顕在化される「極める」行為を現代の病理であると述べているが、その指摘は「極める」のみでは宜しくないということであろう。すなわち、「極める」こと自体が拙いのではない。著者の考えを私なりに進めると、「極める」一方で俯瞰して眺める、ということがおそらく大事なのではないだろうか。

 極めつつ俯瞰することは一見すると相矛盾する行為のように思えるが、それを高い次元で実現しているのが棋士の羽生善治さんではなかろうか。将棋という「極める」ことが求められる分野で前人未到の大記録を次々と成し遂げつつ、脳科学者や情報工学者といった学者からラグビー、サッカー、野球といったスポーツ選手など幅広い分野の人々との共著がある。将棋界でのパフォーマンスを二十年以上に渡って高いレベルで発展的に維持し続け、また異分野の方々との対談は示唆に富んでいる。羽生さんが十代で棋界の新進気鋭の若手として台頭した際の風当たりは強かったと言われる。芸を極める方法のみを用いる日本伝統の技能向上を行ってきた人たちからすれば、羽生さんのような芸を極めつつ俯瞰する作法は理解されなかったのだろう。しかし、だからこそ、著者の指摘する日本的病理への一つの解答が、羽生さんのあり方にあるのではないか、と私には思えるのである。

 ただ単に既成概念に反発するというのは、テーゼに対するアンチテーゼであり、結局は同じ穴の狢に陥る。そうではなく、極めつつ俯瞰することはジンテーゼであり、次元の異なる話なのではないだろうか。著者の手厳しい指摘に対する、今を生きる人間としての回答として、極めつつ俯瞰するという作法を提示して筆を置くこととしたい。




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