2011年4月10日日曜日

【第20回】『歴史とは何か』(E.H.カー著、岩波書店、1962年)

歴史の書物を読む際には、書物に書かれている「事実」ではなく、それを書いた歴史家に関心を持つべきである。

著者の簡潔にして明瞭なこの指摘はもっともである。歴史の書物を含めて、文章を書くという行為は、多様で膨大な事実のほとんど全ての部分を捨象し、換言すれば、ほんの一部の事実を抽象化して述べることに過ぎない。

続けて著者は、膨大な事実の入力と、それに続く抽象と捨象、その結果として文章を出力する、という一連の流れにより、書き手自身が見出したものの意味や重要性を俯瞰することができると言う。つまり、読むことと書くことの相互作用であり、アウトプットを意識した上でのインプットの重要性がここで示唆されているとも読めよう。これは、組織行動論の大家であるカール・E・ワイクが用いる「わたしがなにを言いたいかは、言ってみないとわからない」という話にも通ずる指摘であると言える。インプットがアウトプットを規定するとともに、アウトプットがインプットを規定するのである。

こうした歴史家と事実との相互作用の不断の過程として歴史は成り立つ。さらに著者は、歴史哲学という学問は科学が為すような一般化を射程範囲に捉えると主張している。つまり歴史は、多様な解答を単純化することで、混沌とする事実の諸連関に秩序と統一とを導き入れるのである。

ここで私たちは一般化の持つ可能性と危険性について想起する必要があるだろう。過去の混沌とした事実に対して意味性を見出して現代社会への適用可能性を導出するというのが歴史の持つ可能性である。他方、恣意的に過度な一般化を行なうことで自身の主張を扇動するポピュリスト的な歴史家の言説には注意を喚起する必要がある。

国家という主体が提唱する歴史も同様である。ベネディクト・アンダーソンが指摘するように、国家が「正しい」とする「歴史」を「国民」が読むことで「想像された共同体」が生まれる様は、歴史の危険性の一部と捉えて構わないだろう。ナショナリズムは、内部の同一性を高めるとともに、外部への排他性をも高める作用をもたらすからである。

このように、一般化の危険性を勘案した上で可能性に焦点を当てることで歴史の持つ意義を享受できる。では、歴史家と歴史の相互作用はどこに向かうのであろうか。その捉え方は、西洋文化圏に属する著者と、非・西洋文化圏にいる人々とで異なるように思える。

まず著者は、私たちを取り巻く環境に対する理解力と支配力を増すことに歴史の意義を見出している。環境適応を行ない続けるために、間断なく歴史を描き続け、超長期的に目指すべき一つのあるべき歴史像を実現する、という発想である。これは、著者も指摘しているように、キリスト教における絶対者の代替物として歴史および歴史哲学というものを位置づけているのである。歴史をいわばイデアのように捉えるこの感覚が、非西洋文化圏に属する私には、分かるようで分からない。

この「分かるようで分からない」感覚は、以前のエントリーで扱った野内さんの『偶然を生きる思想』がよく解説してくれている。端的に二項対立的に改めて述べれば、「日本人は歴史を川の流れのように循環するものと捉える」のに対して、「西洋では、歴史を構築物的な持続性のあるものと捉える」(http://bit.ly/hObxPA)。歴史に対するこの感覚の相違が著者の上記の主張への違和感となっているのであろう。

違和感について否定的に捉えるむきもあるかもしれないが、私はむしろそこに積極的な意味合いを見出しており、違和を感じることに大きな可能性を感じている。違和感とは、自分たちのものの見え方を相対的に理解する契機になるからだ。

歴史に対する考え方、またその西洋とそれ以外の文化圏の違和感について触れられる本書を読む経験は、著者と読者との建設的な相互作用をもたらす良い機会となるのではないだろうか。

<参考文献>
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007
野内良三『「偶然」から読み解く日本文化 日本の論理・西洋の論理』大修館書店、2010





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