2011年3月21日月曜日

【第17回】『サンデルの政治哲学』(小林正弥著、平凡社、2010年)

昨年テレビで放映されて一大ムーブメントとも言える人気を博した「ハーバード 白熱教室」。毎週ビデオに録画をし、たのしみに観ていた。かじったことのある哲学者の名前や考え方が取り上げられているのは刺激的であり、サンデルの問いかけやファシリテーションは実務上の参考となった。

それにもかかわらず、正直に白状すると、ビデオを観ているといつの間にか転寝してしまうことがよくあった。テーマに興味があるのに、集中が持続しない。生来の「ながら族」が故に、他の行動を取りながら番組を観るという姿勢が宜しくなかった、という側面もあるだろう。しかし、集中が続かなかった理由はそれだけではなかった、ということが本書を読んでよく分かった。

集中が持続しなかったもう一つの理由。それはケースメソッドの前提にあった。ケースメソッド形式の授業の場合、ケースとともに参考文献が指定されることが通例である。したがって、あの番組で議論しているハーバードの学生たちは、サンデルの哲学や授業で扱われる哲学者の考え方を予習した上で議論している。つまり、私の集中が続かなかったもう一つの理由は前提知識の欠落にあったと思える。結論的に言えば、あの番組の議論の深みを味わうためには、視聴者も前提知識を持った上で、かつ議論に参加するような真剣さで鑑賞することが求められていたのではないか。

本書は書名の通り、サンデルの政治哲学を解説した本である。大胆に要約してしまえば、リバタリアニズムとリベラリズムを批判的に捉えた上で、コミュニタリアニズムの思想的な可能性を示唆する、という内容である。それぞれの流派を対比的に論じているために、論旨が明快であり分かり易い。そして、こうしたサンデルの哲学の背景を踏まえた上で、前掲番組の書籍版とも言える『これからの「正義」の話をしよう』(以下『正義』と略記)を読んでみた。すると一つひとつの話題の深みを理解でき、一気に読み終えてしまった。前提知識がない状態で悪戦苦闘しながら番組を見ていたときとは好対照である。そこで、『正義』を未読の方には本書をセットで読むことを強くお勧めしたい。

むろん、こうした前提条件を満たしただけで本書および『正義』を一気に読み終えたわけではないだろう。それは必要条件であって、十分条件ではない。その大きな理由は、私がかつてはまった哲学者であるベンサムとロールズを批判的に論じられているからである。ベンサムの功利主義はリバタリアニズムへと継承される考え方であり、ロールズはリベラリズムの代表的論者である。好きな人物を批判されて興味深いというのもおかしいのかもしれないが、これらの人物は哲学者である。哲学者は批判されてこそ価値があると思うし、そうされることで読者は俯瞰的に哲学の体系を理解することができる。だからこそ、好きな哲学者や著者ほど批判されてほしいと考えるのである。

コミュニタリアニズムについて本格的に触れるのは今回がはじめてであるが、偶然にもリバタリアニズムやリベラリズムの思想的限界を真剣に考えたことがある。今から12年前、母校の受験会場で小論文の試験に取り組んだときである。設問は、大きい政府と小さい政府に関する文章を読んだ上で、どちらかの立場に立って他方を批判的に論じよ、というものであった。本書に関連して記せば、大きい政府の思想的な背景にはリベラリズムがあり、小さい政府の背景にはリバタリアニズムがある、と言えるだろう。

18歳の私は、リベラリズム的な考え方の利点を主張し、リバタリアニズムの問題点を指摘した上で小さい政府を批判した。そこですんなりと終えればよかったのであるが、二項対立的な書き方で果たして良いのか、と疑問に思ったのである。なぜなら、リベラリズムにも限界があり、他方でリバタリアニズムにそれを補完する可能性があるのではないか、と考えたからである。さんざん迷った私は、二割弱の分量を割いて、「そもそも問いを二項対立的にしているのが誤りであり、小さい政府にもこれこれのメリットがあるので全面的に批判するのは問題」という趣旨のことを書いた。

この時点でコミュニタリアニズムという具体的な方向性は見えていなかったのだが、その萌芽を感受した原体験であったのではないか、と今になって思えるのである。つまり、リベラリズムとリバタリアニズムでは解決できないなにかがあり、それをどう解消しようかと悩んだのである。このように考えると、今回の読書体験はあのときの「宿題」に取り組む良い機会であったと意味づけられて感慨深い。

私が本書を面白く読んだ理由は上記の通りであるが、なぜ今サンデルが流行っているのか。それは極端な考え方が蔓延しがちな状況の中で、判断力を高めることの必要性を多くの人が感じ取っているからではなかろうか。というのも、サンデルは『正義』の中で自身の哲学の正しさを主張するのではなく、対話の大事さを主張している。異なる立場の人同士が持論を主張しあうだけでは『バカの壁』の状態に陥るだけである。そうした状況を止揚するために、サンデル的な対話および正義を考える思考的枠組みが求められているのではないだろうか。

その前提には自己の中での多様性も大事である。つまり、必ずしもサンデルだけが正しいのではない。あるときはサンデル的な考え方をし、違うときにはベンサムやロールズの考え方を使えるといった具合に、自身の頭の中に引き出しを用意し、それを適切なときに開けるための準備をしておくことが大事なのではないだろうか。

<参考文献>
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房、2010
養老孟司『バカの壁』新潮社、2003





0 件のコメント:

コメントを投稿