2011年3月6日日曜日

【第15回】『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、集英社、2010年)

いざなぎ超えと言われた20021月~200710月までの69ヶ月に渡る経済成長。この未曾有の好景気を肌感覚として実感できなかった最大の理由は所得が増えなかったからである。では好景気がなぜ国民の所得増をもたらさなかったのか。

本書ではその根本原因を諸外国との交易条件の悪化に見ており、その最も大きなインパクトを与えているものは石油をはじめとした天然資源であるとしている。つまり、好景気によって主に海外への売上が上昇した一方で、生産過程で使われる天然資源の価格高騰により支出が増えたために効果が相殺。その結果として、利益が逼迫して所得の上昇に蓋をした、という構図である。

と、ここまでは普通の議論であるが、本書では天然資源の交易条件が悪化した歴史的な背景を経済および国家という二つのファクターで丹念に議論されているのが特徴的である。

歴史を遡れば、1960年代までは石油メジャーと呼ばれる大手数社が油田の採掘や石油価格を実質的に支配していた。これは、西欧の中心的国家が周辺部に植民地を設け、土地を囲い込むことで資源や市場、労働力を安価に手に入れて経済発展を遂げる、という帝国主義的なアプローチと言えるだろう。しかし、脱植民地化運動や資源ナショナリズムの高揚で中東の資源国が発言力を高めたためにOPECの価格決定力が増した。中東諸国と石油メジャーとの勢力が逆転した事実を端的に表したのが1973年に起きたいわゆるオイルショックである。

中東の石油産出国が影響力の源泉としていたのは、石油の採掘に伴う労働力や土地という実態経済であった。それ以前の石油メジャーも同じ権益により支配力を維持していたのであり、同一のルールに則って勢力の交代が行なわれたと言える。

しかしその後、ルールが変わる。OPECの価格支配に対抗するために、石油を金融商品化して国際石油市場を整備し、金融商品の売買によって利潤を得ようという動きが1990年前後からアメリカを中心に起きたのである。つまり、実体経済に影響を与える地政学的な枠組みが取り払われ新しい経済の流れが生まれたのである。

このような大きな流れで捉えれば、イラク戦争は石油利権という実態経済上の利益を得るための戦争ではない。そうではなくて、ドルを基軸通貨とする国際石油の金融市場のルールを守るためのアメリカによる戦争である、と本書は指摘する。当時を思い起こせば、ユーロが基軸通貨として台頭していた時期であり、基軸通貨競争でドルがユーロに敗れる事態になれば、アメリカが金融取引を通じて内外で得ている利潤が一気に消滅する危険性があったわけである。そのような時代背景の中でイラクは石油をユーロによる取引にすると発表した。したがって、アメリカとしては、他のあり得る理由を根拠にして、自国通貨を守るために戦争を行なったのではないか、という主張である。

この主張の合理性の判断は読者諸氏に任せるとしても、領土を経由せずに、金融取引をもとにして他国の経済を支配するというのが現在のグローバル化であるという論点は充分に首肯できるものと言えるのではないか。そして、その流れに乗り遅れているのが日本経済であるということも言えるだろう。

では、巷間でよく言われるように、こうしたグローバル化の進展に伴って国家の存在意義はなくなるのであろうか。本書ではこのような考え方は否定されている。たしかに近代以降に支配的であった国民国家という形態に変化は起きているが、それは国家じたいがなくなるということではないというのである。というのも、市場と国家とはときに対立的に捉えられるが、それは誤った捉え方であり、市場経済と国家とは共犯関係にあるのである。

つまり、近代資本主義の進展は、暴力を扱う国家と、労働を管理する資本家とを分離する作用をもたらした。国家は暴力を背景として保有する領土内の人民から租税を徴収し、自国以外の存在からの略奪の危険性を排除する。そうした安全面での保障を背景に資本家は経済活動を行なうことで富を蓄積して労働者に配分し、また国家に対して租税を納めて国家の強化に繋げるという構図である。やや穏やかでない書き方になっているが、要は、市場と国家との相互依存関係がイメージしていただければありがたい。

こうした国民国家の形態が変わりつつある、ということはどういうことであろうか。本書によれば、実は、冒頭で記した金融化に向かう現象は現代のみに特有のものではない。つまり、実物経済の利潤低下、金融化の拡大、バブル発生、ヘゲモニーの終焉、という一連のプロセスは、スペインやポルトガル、オランダ、イギリス、といったかつてヘゲモニーを担った国々がかつて経験したプロセスと同じなのである。したがって、我々はこうした脱近代的な社会システムの構築が必要である、というのが本書の結論である。

では、どうすれば良いのか。交易条件を軸にして国家と資本市場との関係性を論理的に導き出す本書の視点は見事であるが、具体的なアプローチは強調されていない。したがって、他の書にその方向性を見てみたい。

私が参考になると思ったのは藻谷浩介さんの『デフレの正体』である。第一に、交易条件が優れた外国に学ぶ、という視点である。その最たる模範例がブランド化である。フランス、スイス、イタリアはITや金融で世界を席巻するということはないが、優れたブランド商品を売ることで莫大な貿易収支を国外から得ている。卑近な例であるが、自家用車は買わないがブランド商品は年に数十万円も消費する、という日本の家庭を思い浮かべれば、その戦略の有効性は自明であろう。したがって、とりわけ新興市場で売れるブランドを強化することが日本の交易条件を強化するために有効なのである。

これ以外にも、高齢富裕層から若者への所得移転を進める、女性労働力の活用、外国人観光客と短期定住者の積極的受け入れる、といった施策が展開されている。個別の議論は本を読んでいただくとして、ここで考えたいことは、こうした具体的で実効性がありそうに思える施策がなぜ現実の経済界や政治界で展開されてこなかったか、ということである。

藻谷さんの主張は、既存の経済「学」の射程にない発想に拠るものである、というのがその大きな理由であるのではないだろうか。つまり、藻谷さんが主張する上述の施策は、サプライ・サイドではなくてディマンド・サイドの施策であり、ディマンド・サイドの富の蓄積主体の移転を主張している。しかし、経済学において、ディマンド・サイドの中身を因数分解するという議論は正当な経済学の射程外なのではないだろうか。そうであるからこそ、藻谷さんや水野さんは「正当な経済学者」から異端として批判されているのであろう。

私はどちらが正しいということを申し上げたいわけではないし、経済学を専門に学んだ人間ではないので言える立場にもない。しかし、既存の経済学、とりわけケインジアンが主張してきたもので言えば、たとえばIS-LM曲線に基づく経済施策は日本経済に効果が薄かったと認識している。2000年代に行なわれた公共工事の増加、地域振興券の配付、高速道路料金の低減、といった財政政策(IS曲線を右側にシフトさせようとする施策)、ゼロ金利政策による金融政策(LM曲線を右側にシフトさせようとする施策)。こういった典型的な経済政策が所得向上に繋がらなかった事実を直視すれば、既存の経済学だけでは対処できないという現実を見つめなければならないだろう。だからこそ、水野さんや藻谷さんといった辺境の経済学者の意見に耳を傾けることは有益なのではないだろうか。

追記
本書は経済と国家に関する書籍であるので両者について書きたかったのであるが、今回は経済に関する記述に傾注しすぎてしまった。そこで、来週は、本書の共著者である萱野さんの『国家とはなにか』を参考にして国家に焦点を当てて書いてみたい。

<参考文献>
福田慎一・照山博司『マクロ経済学・入門』有斐閣、1996
藻谷浩介『デフレの正体』角川書店、2010





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